賀川督明氏が岡山市で講演 【山陽新聞11月3日】

 キリスト教社会運動家賀川豊彦(1888-1960年)の活動開始100年を契機に、業績を再検証する取り組みが進んでいる。ゆかりの各地を巡る孫のグラフィックデザイナー賀川督明さん=山梨県都留市=は岡山市でも講演し、「豊彦の周辺で事業を支えた専門家集団の働きに注目してほしい」と語りかけた。
 「今日の貧困は物の欠乏によるのではなく、豊富さから生じている。(中略)私たちは欠乏のゆえではなく、過剰のゆえに苦しんでいる」(「友愛の政治経済学」コープ出版)。最近の言葉ではない。1936年、豊彦は米国で行った講演ですでに現在の貧困の本質をとらえていた。
 神学校を卒業した豊彦は1909年のクリスマスイブを期し、当時日本最大と言われた神戸のスラムに住み込み、救貧活動、セツルメント(隣保事業)に献身した。大不況−大恐慌を経て、労働運動、農民運動、協同組合運動へと活動を発展させ、今日も教育・福祉施設、病院、生協などさまざまな形で業績が受け継がれている。
 近年、祖父を語り始めた督明さんは10月17日、おかやまコープ(岡山市南区)の学習会に招かれ、組合員ら約60人を前に、豊彦の生協運動とのかかわりを中心に講演した。
 豊彦が亡くなったとき督明さんは7歳。祖父の手がけた事業の大きさは、祖母ハル(1888-1982年)の姿を通じて感得した。ハルは引き出しにしまっている数百通の通帳の中から毎朝数十通ずつ取り出して並べ、銀行員の来訪を待った。豊彦がかかわった施設や団体あての定期預金を積み立て、それぞれ満期になると送金していたのだという。
 豊彦の周りには、神戸公共職業安定所長を務め、数十カ所の保育園や福祉施設を運営するイエス団を支えた武内勝(瀬戸内市生まれ、1892-1966年)、日本農民組合を興し、衆院副議長に選出された杉山元治郎(1885-1964年)ら、大勢の専門家集団が控えていた。
 豊彦の農業理論に感化され、郷里の岡山県久米町(現津山市)に「立体農業研究所」を開いてヒラタケなどの栽培実践に取り組んだ久宗壮(1907-85年)をはじめ、岡山県内や瀬戸内一円にもその輪は広がっていた。
 督明さんはハルを筆頭に、豊彦を支えた人々を「コーワーカーズ」(共働者)と呼ぶ。技能職集団を抱えた建築ギルド(同業者組合)など、活動の全容が伝わっていないものも多く、関係者を訪ねて全体像の掘り起こしを進めている。
 著作を口述筆記し、「豊彦のペン」と呼ばれた人々が莫大な印税収入をもたらしたように、専門家集団はそれぞれの事業で収入を得ていた。督明さんは「武内が造った歯ブラシ工場など、地域に合った取り組みで雇用を生み、社会基盤を整えていった。集団は互いの領域を超えて共に生きる総合力を兼ね備えていた」とみる。
 献身100年記念式は12月22日、ポートピアホテル(神戸市中央区)で開かれる。来春、全面改築オープンする賀川記念館(同)の展示準備にも携わる督明さんは「豊彦が掲げた『一人は万人のために 万人は一人のために』の標語は、プラスとともにマイナスをも分かち合うことを意味した。私たちのすぐ隣に痛みを持った人がいることを教えていると思う」と話している。