なんともかなわないパルモアの三宅廉医師

 AMAZONで『パルモア病院日記』を購入した。絶版だったので古本市場で探したら、たったの「1円」だった。読み終えて5000円でも読みたい本だと思う。手放した人は主人公の三宅廉先生の理解が足りなかったはずだ。人にも勧めたいと思っている。

 そんな気持ちでいたところ、神戸新聞の河尻記者が小生を訪ねてきた。パルモア病院の話をしたら、「献身100年でパルモア病院にももっと働き掛けたらよかったのに」と感想を漏らした。地元の人であればあるほど、パルモア病院の献身的な医療活動を知っているのだと感じた。

 賀川豊彦の肝いりで開校した神戸保育専門学校の昭和59年の卒業式の後の茶話会での一幕を紹介したい。

 三宅は顔見知りの教師らと旧交をあたためていたが、不機嫌だった。なぜなら、その日の新聞に、徳島大医学部が体外受精卵を患者に無断で実験用に使ったという記事が掲載されていたからだった。三宅には、日本の医療が本当に人のために進もうとしているのではなく、医学のためにしか進められていないという危惧があった。
 「日本の医学はメディカル・エレクトロニクスが出現してから、それに占領されてしまった。ハイ・テクノロジーがすなわち医学だということになった」と言ったのは、親友の日野原重明だった。
 その日野原のカナダの友人が日本に来て「日本の医学のサイエンスとは、サイエンスではなくテクノロジーだ」と言った。臓器をモノとして扱うテクノロジストの仕事しかやっていないと。
 これは病院に入院した患者の誰もが感じる深い疑念ではないか。外来に行くと長時間並び、員数の一人として山ほどの薬を渡されて帰る。入院したら、検査、検査の連続で、検査の疲労で本物の病人になってしまう。その間に診てもらうのは研修医であり、採血にくる看護婦だ。その検査期間がやっと終わると、次に担当医がくるが、彼は検査の数字を眺めて結論を出すでkだ。患者の痛み、不安、悩み、個人差を見るのではなく、数字の解読者でしかない。患者は、医師という「人間」に出会えない。そして重病の場合、もう二度と病院から出られず、裏門から霊柩車で送り出される。恐らく日本中ののほとんどの人がこれを体験し、潜在的な不満を抱いている。(続く)