(9)−雲水遍歴

 賀川豊彦は1914年、初めてアメリカの土地を踏みます。プリンストン大学への留学で、マヤス先生らキリスト教の恩師たちの力添えによって実現しました。授業料は免除されましたが、アルバイトをしながら3年間アメリカで過ごしました。この時、アメリカで労働組合運動があるのを初めて知ったのです。労働組合運動だけでなく、多面的なアメリカを吸収しました。
 余人に真似できないのは帰国してから、また新川に戻るところです。アメリカでの留学生活は金銭的には苦しかったかもしれませんが、きれいな芝生のキャンパスの中で、寄宿舎も多分きれいなシーツがあって、伝染病などからほど遠い3年間を過ごしたはずです。よほどの決心がなければ、帰国の翌日から再び新川で貧民救済が続けられることはできません。1909年に初めて新川に入った時以上のエネルギーが必要だったはずです。
 賀川は生涯で7回渡米しています。2度目の渡米は1924年。全米大学連盟からの招待でした。スラムでの献身的活動は日本に来ていた宣教師たちによってすでに伝えられていました。
 米沢和一郎氏の欧米での調査によれば、アメリカの「Christian Century」、スイスの個人雑誌「New Wage」、フランスの「La Solidarite」などに頻繁に「スラムの聖者」として紹介されていました。
 キリスト教系の新聞や雑誌は、日本と違って読者のすそ野が広く、世界中くまなく読まれるため、その影響力は計り知れません。図書館に行けば必ずあり、教会に行けば必ず置いてあるような雑誌、新聞がです。
 シュバイツアーとある日本人との手紙のやりとりの中に「賀川」が登場するのはちょっとした驚きです。アフリカのシュバイツアーは賀川の記事を読んでいたはずなのです。キリスト教ネットワークの影響力がいかに大きいかということでもあります。1932年にア−キシリングが『Kagawa』という伝記を書く10年も前から、実は賀川の名は世界で知られていたといってよさそうです。
 2回目の訪米に戻ります。アメリカへの到着は1924年2月。滞在中の7月に「排日移民法」が成立しています。賀川にとって大きな衝撃となります。貧困に加えてさらに人種問題が大きな課題となって立ちはだかるのです。
 そのころ、サンフランシスコやシアトルでは日本人の数が急増し、総人口の10%を超えるようになっていました。西海岸が日本人に占領されるという恐怖感が排日移民法成立の背景にあったことは間違いありませんが、賀川のアメリカに対する意識は「天使のアメリカ」から「悪魔のアメリカ」へと大きく修正されます。プリンストン留学時代は、学ぶべき、いいアメリカでしたが、この時ばかりは「悪魔のアメリカ」と呼んでいます。賀川は親米主義者のように語られていますが、アメリカでの講演ではアメリカでの人種差別を徹底的に批判しています。
 賀川は国際的な伝道師、社会活動家としての側面と、日本人という側面と、二つの顔を持っていました。歓迎を受ける一方で、新聞記事だとか、日々の生活がすべておもしろい、楽しい旅ではなかったはずです。その証拠に、彼がアメリカでの旅を終えてニューヨークからロンドンに向かう時に、こういうことを書いています。
「船はニューヨーク港を出た。港の入り口に立つ自由の神様は霧のために見えなかった。それは私は意味あることにとった。米国は、今、霧の中にある。自由の神像は米国には今、見えないでいる」(『雲水遍歴』1926年、改造社
 暗に排日移民法を批判した文章で、「米国国民は国民的年齢において満12歳である」とも書いています。マッカーサーが日本の精神年齢について「12歳」と言ったちょうど20年前にアメリカ人に対して「12歳である」などと書いているのには驚かされます。