世界国家25 世界国家と警察(1948年9月号)

世界国家と警察制度
 世界国家の創設
 日本は新憲法の前文とその第九条とにおいて、戦争を放棄して平和国家の建設を宣言した。戦争放棄を宣言したのは、文明国としては三度目である。第一回はちようど百年前の一八四八年二月にフランスが行い、第二回はスペイン共和国が国際連盟の第一条を自国の憲法とした時である。けれども、二回とも忽ち中止して世の物笑いとなつたに過ぎなかつた。しかし今度日本は、原子爆弾の出現によつてへたをすれば世界が破壊するかも知れなくなつたので、人類の不幸を止めるために、戦争放棄を決定したと宣言している。
 第二次世界戦争の結果生れた国際連合(United Nation Origanization)は、大国の拒否権を認めたために、ロシアとアメリカとがうまくゆかぬところから、行き詰つてしまつた。そこでシビレをきらしたアメリカ、イギリス、フランスの思慮ある人々は、これではいかぬ、ほんとうの平和運動を起そうと、「世界国家」の創設に真剣な努力を払つているのだ。どうした関係か日本では余り報道されていないけれども、海外における「世界国家」の運動は、とても盛んになつてきた。米国四十八州中二十州では、既に州会の決議で「世界国家」に参加することを定めているので、四十八州の三分の二即ち三十七州が賛成すれば、米国の憲法を変えて世界国家に参加することが可能になつて来るのである。英国ではさらに進み、熱心に議会がこの問題を取り上げて論議している。その他十六国もそれぞれ熱心に運動を進めている。日本は平和教育が徹底していないため、暴力革命によらず平和な手段で国家を経営する研究が非常におくれている。けれど、この世界国家は必ず設立される情勢にあることを知り、大いに研究しなければ、折角新憲法で平和国家をうたいながら、実際においては、世界の大勢からずつと遅れてしまうであろう。
 アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、中国の五ケ国が、国際連合では安全保障のため警察隊をその手中におさめている。一九四一年サンフランシスコ会議でこのことが議せられた時、私はラジオを通じて反対した。真の世界平和を来らせるためには、警察組織が必要であるが、それは公平な方法によつて組織されなければならず、勝つた五ケ国だけで自由にすることは根本的に間違いであると強く主張した。が不幸にして私の予言した通り国際連合は全く行き詰つてしまつた。ヨーロツパの二十五ケ国中、ロシアの勢力下にある国が九つとなり、他の国家と対立しているために、ほとんど国際連合は実現できなくなつてしまつたのである。そこでシカゴの近くのノースウエスターン大学の七名の学生が、国際連合よりも更に徹底した「世界国家」を創設しようという運動を始めるに至つた。
 それが各国の世論の支持を受け、現在では世界の大問題となり、各国において盛んに論議されている。運営についても色々な意見が出ているが、人民の間から人口百万について一人宛の人民代表を選挙して世界連邦議会を組織し、さらに六十五の国家から出した代表者達をもつて上院を組織する。そして世界九地区で八十一名の常任委員を選出し、各界の名士を十八名これに加えて、九十九名の人々によつて世界国家が運営されるというのが大体の構想である。
 現在の独立国家は、その独立をつゞけはするが、憲法を修正しその主権の一部を制限し、世界国家の有する警察によつて、世界の安寧秩序を維持するようにする。今年の九月にルクセンブルグで準備委員会を開いて色々準備をとゝのえ、一九五〇年に人民代表会議を開催して、仮憲法を決定する。その後、各国に働きかけ、独立国六十五中過半数の三十三ケ国が賛成すれば、一九五五年に世界国家の創設を実現しようという案をすゝめている。
 日本のような軍備をもたぬ国は、この世界国家に加入しなければ、到底治安を維持してゆくことが出来ないであろう。一九四八年五月神戸で朝鮮人が、県庁の知事室で県や市の首脳部十三名が会議をやつている最中に侵入し、ひどく騒いだ事件が起つた。大阪府兵庫県の朝鮮七千人がバスやトラツクに乗つて集つて来た。そこで非常時態宣言が発布されたので、進駐軍の兵隊が特別の処置をとつたためやつと秩序が保たれたのである。その結果朝鮮人は山の中へ逃げて一週間も出てこなかつたそうである。又国外から武器が相当密輸入されるために、にわかに海上警察隊がつくられるに至つたともいわれる。
 最近ギリシヤやチエコスロバキヤなどで起つた事件などを思いだせば、非武装国家がその安寧と秩序を保つてゆくためには、どうしても世界国家の警察というようなものがなければならないことがわかるのである。
 愛の警察
 暴力国家が武力を背景として警察を持つているのに対し新しい平和国家は愛を基準とした警察を組織しなければならない。世界は一面からいつてこの二つの対立した運動の中に、その深刻な悩みを味つているのである。日本は今日までずつと征服国家として武力暴力を行使してやつてきたが、これからはあくまで愛を基とし、社会連帯意識の深められることによつてやつてゆかねばならない。レーニンの書いた「国家と革命」をよむと、「国家は暴力の組織化したものである」と述べている。しかしこの考え方は、今日の日本にはどうしても許されないもので、我々はその反対に国家は助け合いをするために出来、互助友愛を組織化したものであるという立場に立つべきである。従つて警察も自己防禦のために活動するという線に沿うて働かねばならない。動物の中に、うろこをもつたり、貝にはいつたり、角や爪を持つたりして自分を守つているのがあるか、警察も国民を守るための活動をなすにすぎないのである。在来の軍隊の武装が、ライオンや虎のように相手を斃すのを目的にしていたのと全然目的を異にしている。
 日本は明治維新の時代に、封建制度は一応廃されたけれども、実際はそれに似た思想によつて、軍隊も警察も運用されていた。が今や我々はそうした暴力国家的思想を全くすてゝ、愛即ち国家、連帯意識即ち国家という考に立つて行かなければ、新憲法は不可解なものとなり、実現は不可能となつてしもう。それで新憲法に即応する世界の平和を念願する強力な平和運動を展開することが、非常に大切な訳である。
 警察も、徳川時代の与力によつて代表されていたような意昧でなく、寧ろ奉仕団体として、戦時中、自警団を組織し大いに奉仕をつづけたのと同じような活動をするという考え方に立たねばならぬ。この奉仕的意識に徹してこそ、世界警察軍が成り立つのである。今までの刑法は人間を性悪なるものと考えて、むやみに苦しめたり罰したりした。がこれからは人間本来は性善であると考え、人格を重じてごくつまらぬ者を助けてゆく、罪を犯すのも性善な人間が酒や梅毒や環境のためにそうなつたのであるから、よく導いてゆくことを努力してゆかねばならない。
 日本が新しい憲法を定めた以上、愛によつて世界が変ることを確信して、社会的な病人に奉仕するための奉仕的自警団的自治警察の実現に努力すべきである。外国人が武装なき日本においてパルチザン的な行為をすることがあるかも知れないから、国家警察が必要であるが、それと同じように世界国家にも国際警察が組織される必要があるのである。

 社会連帯意識の警察
 今迄も奉仕的な警察があるにはあつた。しかし在来の日本警察は強権から出発し、凡てを天皇に帰し、天皇の命令に従うことのみを旨とした。けれども新憲法によつて主権は人民にあることになつたから、今日までの立場は根底からくつがえされてしまつた。で国民全休が互助友愛によつてやつてゆくということを根本とし、警察もこの連帯意識に立つてゆかなければならない。天皇世襲的大統領と理解し、人民が自らのために選挙したものと考えるようにすべきである。天皇神権説は既に倒れ、天皇機関説に移つてしまつたのだ。
 真の主権は愛そのものである。今後の警察も人民を愛する精神より運営し、南京虫やまむしが人間に危害を与えるから、これを除くように、殺人犯人などを捕えて人民の危険を防ぐのに努力すべきである。過去のように威張るものでない。奉仕するものでなければならぬ。この事実を徹底的に認識せねばならぬ。
 支那易経という孔子が編集した面白い書物がある。内容を見ると、それは周の文王が殷の紂王に捕えられて、十二年間も黄河のほとりに囚人生活をさせられた時に書いたものらしい。「易」というのは、うつりかわりを意味する言葉で、うつり変りのはげしい時代にどういう気持で自分の身を処して行つたらよいかを記したものとされている。それで今日では易というと、運勢を開く点に力をいれ、迷信に陥りやすいが、そんな気持で易をいじるのは間違つている。即ち良心をうつりかわらせ、自分のとがやあやまちを反省し、天の命ずるまゝに自分の良心をかえてゆくのが真の易の道であると説いている。
 日本の現在のうつりかわりについても、同じことが考えられる。互助の精神でこの時代を切り抜けてゆくか、それとも外部的暴力的革命でやつてゆくか、この二つの道が目前に現れている。私はどうしても互助相愛の組合組織によつて日本を再建して行かなければならぬと思つている。従つて警察も、自警団を組織して、奉仕的に一般の人々を保護するという精神を実践して日本を再建せねばならぬ。もし暴力主義的警察でやつてゆくなら。おそらく日本はどうしても立ちあがることはできないであろう。

 愛と強権
 浅く考えると、武力暴力権力が非常に強いように思われるか、愛から出発する奉仕が一番強いのである。徳川三代将軍家光公の時、剣道の指南柳生但馬守が沢庵和尚と問答をしたことがある。禅問二十四話集を見ると、和尚が「但馬守、人の霊は切れるか?」と聞いたところ、「切れません」と答えたので、「剣では人の心は切れぬかも知れぬが仁をもつてすれば霊まで切れるぞ」とさとしたと記されている。こゝに覇道と王道との区別がある。覇道は、剣に立ち、力をもつて何でもやつてゆこうとするが、王道はこれに反して、仁に立ち、愛をもつてやつてゆこうとする。日本も明治大正昭和と三代にわたり、覇道をもつて進み、武力に頼つて行動しすぎたため、ついに倒れてしまつた。日本の皇室が、今日までなおつゞいているのも、歴代の天皇が仁に立つて政治を行われて来たためである。
 ノースウエスターン大学の学生七名が、平和世界の実現を望んで世界国家を提唱したのは、この愛を基礎としているのである。それで奉仕的な気持から、人類に危害を与える狼や虎を逐いはらう意味で、兇悪な犯人を捕え、日本の治安を守る立場から自治警察を完成せねばならぬ。こうした意味の変化を来らせ、しつかり自覚を持つ必要がある。
 「人その友のために生命を棄つ、これより大なる愛はなし」とキリストは叫ばれたが、狂人や病人を保護する気持で生命をさゝげて社会を護らねばならぬ。征服するための権力行使では、新しい日本は建設できない。侵略は必ず亡びることをはつきり意識してせねばならぬ。キリストは群集から革命党の主領となつてくれと要求された。ユダヤの国は、ユダヤ人とアラブ人の問題のため、最近世界の視聴を集めているが、日本の九州よりもちいさい国で、つまらないきたない地域である。この沙漠の中から立派な精神が生れて、世界の精神を指導するに至つた。キリストはユダヤの名君ダビデ王の直系で、家柄のよい家に生れたのでローマ帝国に対抗する革命運動の首領にかつがれようとした。若しキリストが少し野心を持つておれば、政治家として大いに活躍することが出来たであろう。しかしキリストは全くその反対に、人類の罪悪をひつかぶつて、人類愛の立場から天に赦罪するといゝながら、十字架にかゝつて死んでしまつた。即ち自分の立身出世の道をすてゝ、下座奉仕の精神から人類の救済のために死んだのである。そのためキリストは人類の救主として全世界に於てあがめられるようになり、今日もなお世界の精神を動かしている。この自己犠牲と献身の愛の精神のみが世界を救うことが出来る。自分を殺そうとしているものゝために祈られた愛の精神こそ世の光である。自分に仇するもの。罪を犯すものゝためだまつて尻拭して、人前に立てるようにしてやる愛こそ、人を善の道に導き得る唯一の力である。人の犯した罪も、宇宙の神の側からみれば神の責任範囲にあることだと考え罪の刑罰を自分がひつかぶつて尻ふきをすることに、キリストが十字架にかゝつて死んだ理由があつた。
 この尻拭いの精神を持つて、贖罪愛の生活を送る人が一人でもふえれば、日本はよい日本に変つてゆくことが出来るのである。日本の新憲法は、社会主義憲法で立派な精神が織り込まれている。けれども、その中にキリス卜のような下座奉仕の精神が示されていないので、生活権や労働権や人格権だけを主張し要求して、自分の義務を忘れてしまうような傾向が生れて来ている。

 販罪愛に立つ警察

 それで新憲法を実行して、日本を立派な文化の国家とするためには、キリストが教えた犠牲の精神がなければ駄目である。人のために生命を捨て、人のために身代りになり自分の利益を考えず、人のために土下座の奉仕をする精神が徹底しなければならない。最近日本で犯罪の数が急激に増加し、家庭と社会の道徳が崩壊の危機にひんしているのもそのためである。
 或人は日本がこのような混乱に陥つているのは、戦争に負けたための一時的な現象であるから仕方がないと考えている。しかし第一次ヨーロッパ戦争後、ドイツに住んでいた人の話によると、あれだけみぢめな敗北に陥つたにかかわらず、ドイツでは強盗や強姦が行われて危険なため、女が夜ひとり歩きが出来ないというようなことはなかつたそうである。それはドイツにはキリスト教の感化があり、人のために下座奉仕をする精神がまだ残っていたためである。ドイツでは無料で看護に奉仕する男女が、六万以上に達していた。
 それにくらべて日本の現状は、まことに情けないものではないか? この現状を脱するためには、どうしても愛と奉仕と社会連連帯意識がなければならない。今日のまゝでは、警察官がいくら不眠不休で苦労をしてもうまくゆく訳はない。スコットランドでは。牧師が一人町に赴任してゆくとキリストの愛と犠牲の精神が徹底するため、犯罪がずつと減少して巡査二百人の仕事が必要でなくなるといわれている。これはまことにうらやましいことで、日本もそうなつてほしい。
 それでまず警官その人が、民衆に下座奉仕を実行し、民衆に犠牲の精神を示して指導せねばならぬ。宇宙の神に対する愛、国土に対する愛、隣人に対する愛、この三つの愛がどうしても必要であるから、警察官がそれを実行して模範を示す必要がある。みぢめな乞食や浮浪者でも、神の子と考え、自分の親類に対するように親切な取扱をしてほしい。関東大震災(一九二三年九月一日)のあと、私は済生会から九十五名の有志看護婦の委託をうけ、しばらく養成して、各方面に送って奉仕して貰つたが、感心な人が多かつた。中でも、長沼看護婦は乞食が敗血症で死にかけた時自分の血を与えて復活させた。この長沼看護婦の気持で、多くの人々が働けば、闇雲が閉ざしている日本の現状にも明るい光明がさして来る。
 警察官の動かない権威は、下座奉仕の気持で尽力してくれるところに生じて来るのである。家族相談所や児童福祉法の施設が実現すれば、警察署の仕事がどんどんくふえて、毎日毎日いそがしい目をみるであろう。しかし辛抱して、奉仕的に日本国家の病気をなおすため、消毒隊として活動する気持をもつて下座奉仕する事が必要である。不眠不休で活躍しなければならぬ時でも。社会連帯意識に立ち、天地の神が守つてくれることを確信し、下座奉仕の精神をもつて死んで行つたキリストの心を、是非実現せねばならぬ。(山梨県大月警察署に於ける講演。二月十九日)(一九四八年九月号)