(14)−献身・新川での一夜

 新川での一夜

 後に同志社大学の総長になる牧野虎次は賀川より20歳も年が上でしたが、賀川を終世、先生を呼んでいました。
 ある夏の夜、新川で開かれた伝道集会で話をしました。集会が終わって、牧野は賀川の長屋に泊めてもらうつもりでいましたが、賀川は「君は特別待遇だ」といって2階の診療室に案内されました。診察台の上に洗濯したてのシーツを二枚重ねてその中で寝ましたが、1時間もたたないうちに体中がチクチクしてきました。電気をつけてみると、シーツの上に黒ゴマをまき散らしたように南京虫がうごめいていて、牧野はゾーッとしました。
 眠れないので、窓から外をみるとまた驚くべき風景に息の止まる思いをします。売春婦たちが男を引っ張り合っていました。「まるで女性サタンがゲヘナで餌物を奪い合っているとしかみえない凄い様相であった」と『神はわが牧者−賀川豊彦の生涯と其の事業』に書いています。
 賀川はただ汚くて臭い場所に住んでいたのではないのです。牧野は同じ本に次のように賀川のことを書いています。
「翌朝先生に導かれて部落内を見て回ったが、白くも頭、トラホームの子どもたちが先生を慕うて寄りそうて来るのを、一々抱きかかえるように愛撫せられる様子は、丁度伝記に読むアシシのフランシスを想わせるものがあった。先生こそ主なるキリストと共に“人々の悩みを負う”悲しみの僕であられたと思う」
 キリストがライ病(ハンセン病)患者の肌を触って治すという場面が聖書にあります。私にはできないことだとずっと思っていました。賀川が新川でやっていたことはまさにそういうことだったのです。
 私はアフリカで一夜だけ木賃宿のようなところに泊まって南京虫に数カ所食われたことがあります。南京虫との出会いはその一回かぎりです。毎日、南京虫に嚙まれる生活はとてもではありませんが考えられません。
 自由だとか民主主義だとかを叫ぶ前に人間の根本に立ち返ると普通の人間にできないことを、新川での賀川は神の御名のもとに普通にやっていたということなのです。
 賀川はよくインドのガンジーと対比されました。共に魂の救済を求めて徒手空拳からスタートし、多くの共感者を得ていきました。ガンジーは弁護士としてのスーツ姿をやめて、糸から紡いだガーディーというインド風の着物をまとい村から村へと伝道しました。イギリスの支配をなんとも思わなくなった人々に対してインド精神の復活を鼓舞しました。サチアグラハといって、巨大な暴力に対して無抵抗で対峙するよう人々に求めました。しかし、ガンジーの場合、インドの貧困にまで救済の手を回す余裕はありませんでした。
 明治、明治、昭和と貧困や病気と戦った日本人が多くいました。石井十次は岡山で3000人の孤児を育てたことで有名です。石井筆子は、滝乃川学園を創設して知的障害児教育に生涯をかけて取り組みました。井深八重はハンセン病と誤診されて送られた神山復生病院で、献身的に看護する院長ドルワール・ド・レゼー神父の姿に感銘を受け、ハンセン病に生涯を捧げました。戦後には、沢田美喜がエリザベス・サンダースホームを創設して混血孤児2000人を育て上げました。李王朝殿下に嫁いだ李方子は韓国で知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立して、援護活動に尽力しました。賀川が際立っているのは、人々を救うことだけで終わらず、どうしたらその原因を取り除けるかを考え実践したところでした。
 若き日の評論家、石垣綾子さんは『死線を越えて』を読んで賀川の元を訪ねました。弟子にしてもらおうと考えたのです。1922年のことです。初対面の賀川についてこんな言い方をしています。
「トラコーマに侵された片目には、黒い眼帯をかけている。眼帯をしていない方の目も真赤にただれ、その赤い目をじっと私に据えた」
石垣さんは賀川に新川に飛び込んできた心情と覚悟を話しました。
賀川は「あなたがここで働きたいなら、まず貧民窟を見なくてはいけませんね」
といって、近くにあるイエス団友愛救済所を案内しました。
「あなたが本当にここで生活する気なら、今夜お風呂に入っていらっしゃい。できますか」
と言われ、夕食後に賀川夫人に銭湯へ連れていかれました。
「浴槽の中に片足を入れると、底に溜まったどろどろの垢が足の裏にどろりと触った。私の身体は一瞬動かなくなった」
「これができなくては、先に進めないと私は自分を鞭打った。一旦たじたじとなった私の心は、どのように無理強いをしても、沈み込むばかりだった」
「その夜、固いせんべい布団にくるまった私は、どうしても眠れなかった。四方から貧困の臭いが発散してくる。身体にまとわりつく汚濁のぬめりが私を突きのめした」
「お嬢様の生活の苦労も知らないセンチメンタリズムだとは考えもせず、向こう見ずの真剣さで」
 石垣さんは夢破れ一夜にして新川を逃げ出したということです。この顚末は79歳の自伝回想『我が愛 流れと足跡』(昭和57年、新潮社)に詳しく書かれてあります。赤裸々な描写による貧民窟内部の極貧の実態と、それに向きあった「新川の先生」の非凡さ、とすごさを、あらためて我々に教えてくれるのです。