神戸ハーバーランド「八時間労働発祥之地」

八時間労働発祥之地のプレートには次のように書かれています。

大正八年(一九一九年) 当時の川崎造船所の松方幸次郎社長が我が国で最初に八時間労働制を実施したことを記念してここに碑を建立した
 平成五年(一九九三年)十一月
      (社)兵庫労働基準連合会
       制作者 井上武吉

 川崎重工のホームページによると8時間労働は以下のような経緯で実現したという。

 当社は松方社長の先進的な経営理念に基づき、早くから欧米諸国の労働状況を研究し、従業員の待遇改善を心がけてきた。 就業時間の短縮や賃金の改正などについては、役員会で十分に審議して成案を得ていた。
 しかし、全国的な労働運動の展開と時を同じくして、当社でも労働争議が発生した。
大正8年(1919年)9月、本社工場(造船工場)の労働者代表が賃上げと年2回の賞与支給など4項目の要求を会社に申し入れたのである。
 その交渉中、争議団はサボタージュ(怠業)という新しい戦術をもって会社に対抗したが、松方社長はかねての腹案であった 「8時間労働制」の実施を争議団の先手を打って提示した。交渉の席にいた従業員代表は驚嘆の気持ちを隠せなかったという。
 当時わが国の産業界において8時間制を採用しているところはなく、そのような回答が出ることなど予想もしていなかったのである。
 この結果、争議は大正8年9月27日、急速に解決をみた。従来の1日就業10時間制は8時間制に改められ、 就業8時間に対しそれまでと同額の賃金を支給するとともに、残業時間の歩増し調整と増給を含めた8時間就業制が、 同年10月1日から兵庫・葺合両分工場において実施されたのである。
本社工場(造船工場)は職場の争議収束を見届けた後の同月3日から、分工場と同様8時間制実施に踏み切った。

 賀川豊彦の名が全国に知れ渡ったのは、1921年7月の川崎、三菱造船争議だとされるが、はずかしながらその2年前に日本初の8時間労働を実現させた別の争議があったことをつい最近知った。賀川がこの争議に参画していればそれなりに記録に残っているはずなのだが・・・・。
 賀川豊彦だけをみていると歴史を見誤るかも知れない。賀川の再評価はやはりもう一度、賀川を歴史の流れの中において鳥瞰してみる必要がある。そう思う近ごろである。(伴 武澄)