シュヴァイツアーの賀川豊彦への手紙

吉田源治郎が「アフリカ沿岸より」とタイトルをつけた二つの書簡のうち、まずははじめに送られてきているもの――「1927年7月27日、アジア丸の船上にてヨーロッパへの途次、アルベルト・シュワイチエル」より、「親しき未知の友・賀川豊彦」への書簡――を、はじめに読んで見たい。
 http://www.kagawa100.com/kagawagalaxy/yoshida051.pdf

                                                            • -

 親しき未知の友よ、
 久しい以前に書く筈であった手紙の返事を故郷への帰航の途次を利用して書いてゐます。アフリカで仕事をして居る時には、手紙を書く暇が無いので、来た手紙は何でもかでも袋に放り込むのです。それで今私はくぢ引きのときに人がやるやうに、袋の中に手を突込んで、一通一通拾ひ出しては手あたり次第に返事を書きにかかってゐます。
 1926年の3月に頂いた御親切なお便りに対して、尽きざる感謝を持ってゐます。また拙著「キリスト教と世界の諸宗教」(宗教科学より見たるキリスト教警醒社発行のものを指す)日本訳に対しても辱なく存じます。その他小生の書物を翻訳して下さる御計画に対しても辱なく思ってゐます。(中略)私は今も猶、日本へ行くと云ふ考を堅く心に抱いて居ます。私は1928年の秋、アメリカへ行く予定です。アメリカではボストンの諸大学、及びニューヨークその他に於て、哲学講演をすることになってゐます。また同地に滞在中その他のこともしなければならないと思ひます。ですからアメリカの仕事を了へて日本へ行くのは、1929年の春にならうと思ひます。それでよろしいでせうか。若し出来るならば、日本での仮のプログラムをお作り下さいませんでせうか。あなたのお便りにオルガンコンサートのことが記されてゐましたが、日本にオルガンがあるでせうか。(註に日、ドイツにてオルガンといふ時にはパイプオルガンを意味する由)日本の方々は古典的の音楽をよく理解なさるでせうか。勿論私は演奏は大好きです。
 どうか日本で私に出来ると考へられる仕事を私に知らして下さいませんでせうか。私は日本で少しゆっくり留まりたいと思ってゐるのです。そしてあなた及びあなたの友人達とも知り合いになり、亦日本の精神的環境にも通じたいと思ってゐるのです。私はそれらの事に就いて学びたいのです。あなたにとって多分はアフリカの大森林が一つの謎であるやうに、私にとっては、日本の凡ての事が一つの謎です。私の怖れてゐる事は、私にあなたが失望なさらないかといふことです。私の講演の場合には通訳によってやって頂ければ結構です。私は今一生懸命に英語を勉強してゐるのですが、私の貧弱なる頭の中は他の事で一杯なので、果たして英語で会話が出来る位、英語に上達するかどうかといふことを危ぶんでゐます。
 もう一つお願いしたいのですが、日本へ参りました節は、どうか私をヨーロッパ風のホテルに泊めないやうに、あなたの最善を尽くして下さい。私はあんなホテルの中に入れられると牢獄の中に居る思ひがするのです。私は日本風の簡易なホテルに泊まりたいと思ひます。そして日本の人達とも親しむことが出来るならそれに越したことはありません。その方が洋風のホテルに泊めて貰ふより有り難いのです。
 あなたの御申越しなされた、私をお招き下さる条件に就いては、それで結構だと思ひます。アメリカから日本へ、日本からヨーロッパへの旅費として九百弗あれば充分です。私はかつて一度も私の生涯を通じて多額の金銭を貯へたことはありません。私の得た金銭はみんな病院の費用(中央アフリカランバレンに於て彼の経営する施療病院をさす)に投じてしまひます。それで私と私の妻子はいつも手から口の生活をして居ります。世界大戦の時に私はドイツに置いてあった私の資産を全部無くしました。それですからその後病気をした時には全く困難したのでした。御返事を待ってゐます。そして1929年度の日本におけるあなた方の御計画をお一報下さい。私はこの私の希望が実現されて、あなた及びあなたの友人にお目にかかれるのがどれだけ嬉しいでせう。あなたの御手紙に溢れた御厚意を深く感じます。あなたとあなたの家族、そしてあなたの国も凡ての方々の至幸を祈りつつ。
 1927年7月27日
   アジア丸の船上にてヨーロッパへの途次

     アルベルト・シュワイチェル
   賀川豊彦