「人間建築」の大切さ(身辺雑記から)

 「身辺雑記」の続きで「教会」の話がある。大正十一年六月の記述だ。
 △大きな市に二十万円もかゝった大きな石造の教会が建つに就て或人が喜んで、
「実に、立派な教会が出来ました!」
と云ふので、私はかう附加えました。
「石と煉瓦と鉄の棒で、造る教会は、金さへあれば、すぐに出来ます。それが何の幸福を与へてくれるものですか」と。
 日本の今日のキリストの教会の問題の間違った点は、すぐ、石と煉瓦と木で建てた教会を造りたがることです。
 それは、天理教や、金光教や、仏教の人にまかせて置けば善いのです。
 十万円の金を貯金して御覧なさい、一年七朱の利子にしても、七千円あるぢゃありませんか! 一人の大学生を養成するのに一月五十円入るとして、毎年十三人ほどの卒業生を出すことが出来るではありませんか! 十年すれば、百三十人、二十年すれば、二百六十人、これらの人とが国民の指導的能力となればそれこそ、目に見え無い大きな教会が出来るではありませんか!
 私は今日の教会の根本的問題は此処にあると思ふのです。それは出来安いこと――而もそれが表面的で、嬰退的で、人生の根本には触れ無いことです。
 もしも、日本の教会が教会建築を急が無いで人間建築を急いだならば、どれだけ大きな貢献を日本にしたか知れ無いと私は思ふのです。(雲の柱大正十一年7月号より)
 何やら日本政府の箱もの公共事業への批判を思わせる記述だと感じた。人に投資することの大切さは今も昔も変わらないのだと思う。(伴 武澄)