賀川豊彦の『医療組合論』その1

 賀川豊彦社会運動家として名を成したが、一方で社会の仔細な観察者でもあった。自分の目で見た社会を克明に観察し、それを文章として残したライターでもあった。20歳代に書いた『貧民心理の研究』は後に「差別書」として批判の対象となったが、スラムに住む貧民の生活実態を報告した数少ない書の一冊であり、今考えれば貴重な歴史資料であることはまぎれのない事実である。

 40歳代で書いた『医療組合論』(全国医療利用組合協会、1936年4月)は戦前の医療制度が大きく変わる変遷を描いた時代史である。賀川研究で困ってしまうのは「実践者・賀川」のことは賀川自身による著述でほとんどのことが描かれているということである。自作自演というのは自分でシナリオを書いて自分で演じる役者のことであるが、実社会ではそうはたびたびうまくいくものではない。しかし、賀川豊彦の場合は実践者として本当の演じてしまうのである。たぶん賀川研究者にとって面白くない部分ではないかと思う。
 賀川の『医療組合論』によれば、1930年代に医療組合が「燎原の火」のごとく全国に拡大していった。きっかけは賀川の中野組合病院の設立だった。当時の社会問題はまさしく農村の貧困と疾病だった。日本が満州に進出し軍国化する中で少壮の軍人たちが5・15事件などのクーデターまで起こすが、その背景には見捨てられた農村があった。政府の多くの官僚たちが直面する問題に手をこまねいている間、賀川は勇敢にも医師会を敵に回しながらも医療組合論をぶち上げ、率先して東京で医療組合の設立に奔走した。
 賀川の医療組合は申請から認可まで2年近い年月がかかったが、火の手は青森に上がり、すぐに秋田に飛び火した。年月現実に3000を超える無医村の問題を解決するためには「助け合い病院」が必要だったのである。東京で医療組合を立ち上げた賀川には、東京で旗を上げれば、注目されて全国に広がるという確信があった。