賀川豊彦のリンコルン(1)

リンコルンの足跡

丸太小屋

車はオハヨ河に沿うて走った。渇った水だ、広い河だ。岸辺の葦はまだ枯れてゐた、柳はまだ芽を吹いてゐなかった。然し単調な平原と、整調の無い都会の屈線ばかり見てゐた私の眼には、間違ひなく水平的オハヨ河の河面が美そのもののやうに思はれた。そして下流に行って大きな双曲線のカーブを描き出した具合、岸辺の森と相抱き合ってゐる柔な肌合が、大陸に疲れた魂には大きなインスピレーションであった。リンコルンがこの川に養はれたのも理由があると思った。
ケンタッキー州首府ルヰヴヰルを出たのは午後一時前であった。リンコルンが生れたホゼンヴヰル(Hodgen ville)までは六十哩もあらう。私はタクシーを雇って、彼の誕生地を訪問することにした。車はオハヨ河の山町に治うた砂埃の多い道を通る。少し岸から離れると、ケンタッキー特有の石灰岩の小山が始まる。高原だ。ブルー・グラスはまだ芽を出してゐない。
約四十哩を走って、エヴンスヴヰルを通過し、程なくホゼンヴヰルにかかる。ここはリンコルンの父が雇はれたホゼンの水車のあったところで、そこのおかみさんに、リンコルンは最初のお伽噺やABCを習ったことが伝記に出てゐる。今は大きな町になってゐる。
ホゼンヴヰルから車は走る。二哩以上も野道を走ると岡の上に来る。そこに牧場がある。車は牧場の中を走って松林の前に止る。大きな道がある、石段がある、石造の御堂が小山の上に建ってゐる。その前の石段を三四十登ると、守衛が立ってゐる。入場券を求めて大理石の御堂の中に這入る。その中に更に木造の丸太小屋がある。
すぐ気の附くのは、これが奴隷解放の思人、人類の解放者アブラハム・リンコルンを養ひ且つ育てた丸太小屋だといふことである。丸太を一本の鉄釘をも使用しないで(鍛冶屋が無かったので、そんなものは得られなかったらう)全部組立て、隙間を土で塗ったものである。開口二間、奥行一間半、西側に同じく丸木で造り、内部に土煉瓦を積み重ねた煙突がついてゐた。その当時、フヰラデルフヰアやワシントンには既に高層な建築物も出来て居たらうが、貧乏とは言へ、この乞食小屋から、他日の一国の主権者、人類の恩人が産れるとは誰れも想像しなかったらう。
その日は二月十二日、冬の夜の最も長い時であった。亭主はいつも留守勝で、その日も居なかった。その留守にリンゴルンは、この高原の一軒家で呱々の声を揚げたのであった。
私は丸太小屋の側にうづくまって、暫くの間、その当時のことを想像して見たが、感慨無量であった。リンコルンの弁護士友達であったヒヰダドンは、リンコルンが或る日彼に告白したことによれば、私生児であったといふ記事から、リソコルンの伝記を始めてゐる。それをリンコルン崇拝者が否定してゐるが、さうしたことに近い事情が、リンコルンの誕生に伏在してゐたことを否定することは出来ない。彼の母ナンシーの母といふのが、堕落した女として、数度監獄に入れられてゐることを見ると、かうした噂の立ち得ることも想像出来る。さうした家庭で育ったナンシーは無学であった。夫は呑助であった。かうした悪質の家庭から、世界の偉人が生れたことは、奇蹟の奇蹟であると言はなければならぬ。
この丸太小屋はリンコルンの一族が此処より北七哩ばかりの処に
引越した後、物置小屋となり他に移動されてゐたものを、リンコルンの死後、彼の熱愛者が、それを元の通りに復旧し、今日では国立公園内の、特別保護建築物として保存されるに到ったものである。小山の裾に石灰岩の断層より迸り出る泉があった。此処はリンコルン一族が水を汲んだ霊地として、この地を訪ふものが必ず水汲むことになってゐる。
リンコルンの熱愛者である私は、百年の昔を偲びつつ、この清水で喉を霑ほした。(『世界を私の家として』から転載)