賀川豊彦のリンコルン(2)

ピジョン・クリーク

車はホゼンヴヰルより北に曲り、高原を七哩、オハヨ河の支流ソルト・クリークに下って行くと、そこにはリンコルンが七歳の時まで、足掛五年間苦労した小屋の建ってゐるところに出る。そこには実物の丸太小屋は建ってゐないが、昔になぞらへて造ったものが建ってゐる。ホゼンヴヰルのものによく似て居る。誠に見すぼらしいものである。丸木を節約するためでもあらう、家の中で脊伸びすると、屋根に届くほどである。
此処でのリンコルンの生活は、野生のそれであった。然し彼の父は、玉蜀黍畑を少し手に入れたが、元金を全部売主に支払ふことが出来ないので、裁判沙汰となり、そこに居ることに嫌気がさして、オハヨ河の西岸に新しい土地を求めに出かけた。その間にアベエ(アブラハムの略称)の妹が病死する。母が病む。リンコルンは幼い時から父の留守を引受けて、母の世話一切をせねばならなかった。
この頃メソヂスト教会の巡回牧師が、この山の中の小屋までやって来て、信仰復興運動が野天で開かれた。幼いリンコルンがその集会に出席したことなどが伝記に出てゐる。
リンコルン七歳の十一月、彼の父はソルト・クリークに筏を造り家財一切をそれにのせて、オハヨ河を渡りインデアナ州ピジョン・クリークに移転せんと計画した。母はそれに反対であった。然し頑固な父は言ふことを聞かなかった。
ケンタッキーを出て十数日、道の無い森の中に、彼らは新開墾地を求めた。霜は降って来た。小屋の準備が出来ない。彼らは遂に小山の側に三方だけ風を防いで、その冬を送った。その寒さにナンシー・ハンクは遂に斃れてしまった。そして翌年、永遠に帰らざる不帰の客となった。
私はリンコルンの生活史を知るためには、何うしても彼が物心がつき出して、最も困難したインデアナ州ピジョン・クリークを訪問しなければならぬと思った。で、五月の一日ニュー・オルレアンスからシカゴへの帰途、休みを利用してセント・ルイスで汽車を降り、態々イリノイ州からインデアナ川に這入り、その南端の大都会エヴンスヴヰルでタキシーを雇ひ、ゼントルヴヰル(Gentlevlle)に行くことにした。
ゼントルといふ人はリンコルンの少年時代の雇主である。土地の人は彼を記念するためであらう、その地方を彼の名で呼んでゐる。道は曲りくねって、見当がつかぬ。然し国立公園に来ることは出来た。田舎も田舎、ほんとにリンコルンの史蹟でも尋ねようと思はないものは来るところではない。
私は同行の友と二人で,辛うじてナンシー・ハンクの墓を見附け、彼等の苦労した小屋の跡を探しあてた。夏期であれば無数の来訪者があるので、それを探すのにあまり困難をしないさうだが、春はまだ浅く、雪は少し前に消えたばかりで、蓬さへ芽を出し兼ねた時なので、私等二人は数十分の間、その小屋跡を探すに苦心した。小屋跡には独逸で造った基石の鉄の模造が置いてあった。何だか、あまり人工的で、ホゼンヴヰルや、ソルト・クリーグで受けた神秘がぐっと来ない。
近くに百年以上も経ったと思はれる樫の木が有った。それだけはリンコルンの時もあったらうと思うて慕はしく思った。この附近はオハヨ河の支流であるアンダソン・クリークまたピジョン・クリークのあるところで、私はそのピジョン・クリークの一部を横切ったが、感慨無量であった。
それから私達は、アベエ・リンコルンが一年近く渡守をしてゐたと言はれるオハヨ河の支流アンダソン・クリークに出た。そこはピジョン・クリークより十六哩ばかり離れてゐる小都会の入口にあった。解氷期で水嵩は増してゐた。オハヨ河は二哩以上も幅があらう。そこを漕いで、人のためにまた自己の生活のために労働したアベエの昔が偲ばれてならない。
考へて見れば、この労働青年が世界の偉人になったのは、全く環境の産物ではない。反対にリンコルンの精神力によったと考へざるを得ない。今日幾千万の労働階級は、リンコルンと同じ境遇に置かれてゐる。然し、リンコルンは渡守してゐる時でも読書を中止しなかった。人に雇はれて行った時でも書物を手から離さなかった。そこに彼の他日大をなす理由があった。(『世界を私の家として』から転載)