賀川豊彦のリンコルン(3)

ロックポート

車は更に十哩ばかりオハヨ河に沿うて西南に走った。とある街路の傍に六角形の小さい銅製の記念碑が立ってゐた。それを見ると、「此処がリンコルンが青年時代、村の青年と一緒になって相撲をした処だ」と刻まれてゐた。歴史の乏しい合衆国では、この偉人の為にかうした記念碑を建ててゐるのであった。
この附近はリンコルンの青年時代の逸話に富んでゐる。特にその村の菓子屋の主人が、そのことに詳しいと聞かされて、菓子屋を尋ねたが、折悪しく留守であった。更に五哩西に走った。そして車は大きな石灰岩の大岩礁の上にさしかかった。
すぐ、私はこの岩礁の故にRock-Portの名が出たのだと気附いた。ロックポートはオハヨ河の流域としては、昔から有名な所で、リンコルンもゼントル氏の息子と二人で、此処から舟を仕立て、ニューオルレアンスまで千哩以上の水路を商売に出かけたことが伝記に出てゐる。
またここに裁判官が住んでゐて、リンコルンに書物を貸したこと、リンコルンがワシントンの伝記を借りて、それを雨で濡らし、その代償を数日の労力で支払ったことも伝はってゐる。
何処にその裁判官が住んでゐたらうか、その時代の植民地は、何んな形態をしてゐたらろか? これに対する答は「市博物館」といふものを訪れることによってすぐ解決した。
「市博物館」といふのは、普通の博物館ではなく、リンコルン時代を記念するためにリンコルンに関係のある凡ての丸木小屋の模型を建造したものである。丸太で作った門を這入ると、第一に眼につくのは、リンコルンに書物を貸した裁判官のゐたといふ、実に貧相な丸太小屋である。
これは小屋といふよりか、踏切番の番小屋と言った形である。勿論出入するにも戸口に頭がつかへる。私はそれを見て、一部のなつかしさを感じたのこの丸太小屋の裁判官の住宅から、今日の堂々たる官宅まで僅かに百余年である。然し人間の心はどれだけ変化したらうか?
リンコルンと恋人を競争したと言はれてゐる、ゼントルの息子の家の模型がある。この家だけが粗末ながら二階になってゐる。またリンコルンの親戚の家の模型(凡て原寸)があった。これはリンコルンの生れた小屋によく似てゐた。リンコルンが数ヶ月通うたヒラといはれる村の小学校の模型もあった。それは話にならぬほど小さいもので、彼の生れた小屋を少し大きくしたもので、腰かけは凡てベンチであった。窓は凡て小さく、入口のみが大きく見えた。かうした環境で、どうしてこの世界最大の巨人が生れたらうかと私は三嘆した。
黄昏は近づいた。ロックポートの森にタ靄がかかった。今日半日の巡礼が無駄でなかったことを私は感謝した。
車をロックポートの小山の上に引返すと、運転手は山の上の白壁館を指差した。
「あそこの家で、リンコルンが大統領になる選挙運動に帰った時泊ったんですよ!」
それは今日ワシントンの郊外に見る文化住宅と少しも変らないものであった。然し、私には、その美しい家に何等の執着をも感じなかった。いや寧ろ、あの丸太小屋で生れ、丸太小屋で育ち、丸太小屋で教へられた、あの荒削りの巨人のために、ペンキで塗らざる素材の家が慕ほしくてならなかった。
車は又、オハヨ河の北岸を走る。雪解けで氾濫した濁水は岸辺の森、畑、家までも浸してゐる。希くはその氾滋の如くリンコルン精神が北米に、否全世界に氾濫し、あらゆる野と山と、市街地を浸さんことをである。
シカゴ行の列車をつかまへるために、エヴンスヴヰルについた時は、日が暮れて程経てゐた。それでも私の眼底にはナンシー・ハンクの淋しい墓と、ピジョン・クリークの森と、アンダソン・クリークの渡場と、ロックポートの丸太小屋が――まざまざと現はれて、シカゴに行く気、がしなかった。