賀川豊彦のリンコルン(4)

リンコルンの店

大雪の日の午後であった、ピオリアを出たのは。そこはイリノイ州の中央部ではシカゴに次ぐ一大産業都市で、人口二十万近くある処であった。
そこから九十哩ばかり東南に平原を走ると、ニュー・サレムの岡に達する。アメリカの土人の襲撃に備へるためか、最初の移住者は、かうした要害をわざと選んで家を建てたものである。勿論、平凡な平原に家を建てるより景色はいい。然し運搬、交通、飲料水等には困難したであらうと思はれる。
平原(プレリー)には全く消失してしまった雑木林が、まだ谷間に残ってある、うねりくねった谿流が音も立てないで、岡の下で光ってゐる。此処は親孝行のリンコルンが二十歳まで、親のために働いた後、独立してからすぐここにやって来て、六年間雑貨店を営んだ遺跡である。イリノイ州知事は、大金を投じてこの山全部を買収し、インデアナ川ロックポートに負けないつもりか、リンコルンの住んでゐた当時そっくりの村を、復活することにした。そして今建てられてゐるのは、リンコルンの店と、その他四五軒の小屋である。その他にも小さいリンコルン記念博物館が石造で出来てゐる。
地内は国立公園になってゐるので、普通の人は自動車を乗入れることを許されないのを、特に州知事の厚意で、岡の上まで目動車を乗入れることを許され、丸太小屋のストーブに火まで入れてあった。
ピオリアまで迎へに来てくれたのはリンコルンの友人の孫娘であった。その人はリンコルン史蹟保存会の会長をしてゐるとかで、とてもその時代のことを詳しく知ってゐた。
リンコルンの店といふのは、納屋のやうな恰好をしてゐる丸木小屋の店であった。店というても、サンプル・ボックスが一つあるではなく、硝子戸の這入った戸棚が一つあるでは無かった。今の日本の山奥の店と、そっくり同じである。秤がある、チーズを作る桶(テサーン)もある。彼が生れた家とは違って北側に寝室がある。高さ三尺もあらうと思はれる寝台がある。
リンコルンは二十歳から二十六歳頃まで、此処で商売したが、商売には成功しないで、政治的に頭を擡げ始めた。郵便局の下受人となり、自治村の区長となり、法律の勉強を始めた。イリノイ州の首府スプリング・フヰルドまで、十九哩の道を法律を読み乍ら歩いた、といふ記録も残ってゐる。で、今日でもその真似をして、イリノイ州の少年団では、この十九哩間を徒歩で、而もリンコルンの演説を暗誦しながら歩む習慣を持ってゐる。そして先について、最もよく審判官の前で暗誦したものに、リンコルン賞を与へることになってゐる。

詩人としてのリンコルン

かうして二十六歳まで、平原と平原を縫ふミシシッピー河とで養はれたリンコルンは、遂に弁護士になる志願をするに到った。然し彼がその方向に進むに到った動機には色々あったであらう。村の鍛治屋の青年に、詩人で且つ読書家がゐた。彼はその男の感化を多分に受け、その男の書物と、その男の自由思想に少からざる感化を受けたと、私は案内役の歴史家にきかされた。
リンコルンは詩人であった。彼の若い時の詩が今日も残ってゐる。彼が奴隷解放の前後に発表した演説の内容は、多分に詩的要素が含まれてゐる。これらは皆、彼の青年時代の交友と環境の賜物だといふことが出来よう。私のやうなものでも、この際限のない平原と、海峡の連続のやうなミシッシピーを見ると、詩人にせられてしまふ。そしてリンコルンは、このアメリカの平原が生んだ、最大の人生詩人であったのだ。