賀川豊彦のリンコルン(5)

スプリング・フヰルド

雪道をまた十九哩東に走って、イリノイ州の首府スプリング・フヰルドに這入ったのは、電燈に灯が入ってよほど後のことであった。私の訪れて行った家は、リンコルンを弁護士の書生として採用したローガン氏の孫娘の家であった。私は妙な関係でローガン女史の親戚と友人関係なので、女史は態々その翌日リンコルンの関係ある所々を案内してくれられた。
スプリングは変った。凡てが現代的になった。然し、リンコルンに関係のある場所だけは変らない。いや、寧ろ、それを名誉として保存してゐる。で、ローガン女史は、彼女の伯父とリンコルンが一緒に執務した事務所、リンコルンが結婚してから住んでゐた家を先づ案内してくれた。後者は二階位の白壁館で、此の家で彼は、大統領に選挙せられたことを聞いたさうである。勿論、贅沢な家ではないが、階下階上各四室ある中産階級の住ひ相当な家であった。
彼は此の家に二十四年間住み、一男二女を生み、後ワシントンに引越したのであった。スプリング・フヰルドの人々が、他の地方の人以上にリンコルンを、自分の土地のリンコルンだとするのも理由がある。リンコルンは此処から選挙せられて、代議士となり、此処から選ばれて大統領になったのである。然し彼が大統領に選ばれた時は、彼が代議士には失敗して、地方に引籠って地方巡回裁判官として、こつこつやってゐる時であったのである。彼はどこどこまでも、人生の苦杯を嘗め尽さねばならぬ運命に置かれてゐた人物であったのだ。
リンコルンは俳優ブースの銃丸で倒れた時「何処か静な所に葬ってくれ」と注文したとかで、遺骸はワシントンから全国民の悲みの中に、千哩近くの路程を了へて、スプリング・フキルドまで運ばれた。そして最初は一般民衆と一緒の墓地に葬られてゐたのだが、彼を愛慕するものは今日立派な記念搭を建てた。それは欧米のあらゆる主権者の墓所にも劣らない華麗なものである。合衆国の凡ての州は大理石を寄贈して来た。彫刻家は彫刻物を、そして、今日ではリンコルン記念美術館の感じがある。――ただ惜むらくは宝塔は徒らに戦車と大砲によって飾られ、奴隷解放者の表象が何処にも見られないことである。米国の共和党は解放精神を理解しないとつくづく感じた。
庭に落ちてゐた橡の棄を一枚拾ひ、橡の葉の間に育ったリンコルンに手向けようと思ったが、黄金色の花束で飾られたその霊殿には、野人の志はあまりにも調子はづれであった。かうして預言者として生れた巨人は、俗人に死後まで殺されるかと悲しかった。
ロビンはまだ森に帰って来てゐなかった。「たんぽぽ」も首を出してゐなかった。ただ真直ぐのびた橡の林に、冬枯の寒い風が強く当ってゐた。