賀川豊彦のリンコルン(6)

米国精神の源泉

雪解水でオハヨ河の大氾濫となり、各地に大洪水が出現した。三月の下旬は疾くと過ぎ私はペンシルヴェニア州の教化運動にかけ廻らねばならなかった。そして思ひがけず、リソコルンの一生に重大危機を画いたゲチスブルグの共同墓地を訪れることが出来た。
何処の大陸でも通有な海岸近くにある小山脈は北米北部では、アレガニー山脈、キャッキル山脈などの並行山系となってゐる。東部ペンシルヴェニアはこの山脈に区分せられ、奥地の水は北東に流れるものと、西南に流れてオハヨ河に行くものと二つになってゐる。オハヨ川の流域は特に洪水が甚だしかったので、私は各地でその話ばかりを聞かされた。この附近は十七世紀の末から独逸で迫害を受けた敬虔派の同志が、ジョージ・フォックスの友愛精神を頼って、移民して来た処である。人情、地味、共に豊かな一所である。
奴隷解放戦争の時(さういふと、南部諸州の人は怒るさうだ――それは州間戦争で、北部にも奴隷はゐたと、主張する人もある)、南の大将リー将軍は、兵糧を得るために、本陣であったヴァジニアから北上して、此の附近で戦ひ、二日程は勝敗決しなかったが、遂に北軍の決死隊によって惨敗し、夜の明けぬ中に見事南方に退却した古戦場である。
かうしてゐるうちに、北軍上杉謙信ともいふべきシャマン将軍は長躯して南部諸州を焼き払ひ、南軍をして糧秣に窮乏を訴へしめた。遂にリーは降伏し、奴隷は解放せられた。そして南北戦争の最大激戦地であったゲチスブルグには戦争がまだすまぬ中に、戦死者の記念碑が建てられた。今でも数知れぬほどの墓が作られてゐるが、その数、数万に上るであらう。リンコルンはその古戦場に来て米国史上に於け未曾有の大演説をしたのであった。そして彼はその短い記念講演の後、小さい長老教会に引籠って、長く瞑想をした後、堂々と奴隷解放の宣言書の起草にかかったのである。
ちょうど、今日ルーテル教会神学校の立ってゐる附近が激戦地であったとかで、私は何とも言へぬ感じがした。共同墓地は今日軍人の銅像が無数に立ち並び、伊太利ミランの墓に行ったやうな感じがした。無名の兵士達の墓地は、ゆるやかな斜面の上に並んでゐた。リンコルンはその斜面の上から下に向って演説したさうである。草稿と実際の演説とは少し違ってゐたさうだが、草稿の方はルーテル神学校に保存してあるとのことであった。
私は暫くの間、リンコルンが立ったといふ記念碑の上に蹲って、解放者の心情を瞑想し、現代社会の解放に就いて神に祈った。
ワシントンで私がいつも、そして何回でも訪問するのはリンコルンの記念堂である。そこはリンコルン五十年祭の時に出来たものであるが、米国に珍らしい彫刻物中心の記念堂である。彼は椅子によりかかって瞑想してゐる。堂の入口の方から彼の顔面をフラシュで照すので、何とも言へぬ神秘な面相が浮ひ出て来る。周囲の壁には、リンコルンの有名な演説が鋼板に刻まれである。
最近は彼の殺された劇場を取毀つとか言ってゐるので、彼に縁故の深いワシントン市の古蹟も全く消滅してしまふであらう。然し、米人がワシントン以上にリンコルンを思ってゐる間は、米国精神は永遠に栄えるであらう。
堂を出ると、一哩に近い大きな長方形の湖面の彼方には、オベリスク形のワシントン記念塔が、そそり立ってゐる。米国歴史に於いて、ワシントンとリンコルンの間は実際その湖面にも値しない。リンコルンは米国中興の父であり、人類、永遠の師父である。