賀川豊彦のリンコルン(7)

欧米最近の精神運動
種蒔き運動

今度の渡米は、私としては四回目であった。
N・R・A(国家更生法)の青鷲が無断にたたき落されたアメリカでは「二百四十億ドルの予算で、六十放以上の老人に月額二百ドルづつ与へて同月中に浪貸させてしまへ」といふ突拍子もない景気回復が唱へられてゐた。これを唱へたのは、或る薮医者である。上院議員ロング氏が言ひ山した「富の分配クラブ」も、出来たとか出来ないとかで、当にならず、ヵフランといふ放送牧師は、神の名の下に財閥打倒を叫ぶといったわけで、全米の民衆は不景気のどん底で空しい踊を踊らされてゐた。そこへ私が、内務省、各州知事、各商業会議所、全米基督教聯盟、全米外国宣教師聯盟から招かれて、私が日本でやってゐる宗教的精神に基いた協同組合運動を興すことになったのである。これは一口に云へば「十字烈のN・R・A」である。
滞在期間は六ヶ月であった。米国は四十八州分れてゐるが、その中四十二州だけ飛行機で廻った。飛行機の上から見下しただけで、足を踏み込まなかった州が五つある。日本には市政を布いた都会が百三十余あるが、米国には三百八十あり、その中、百四十八だけ見て来た勘定である。講演は五百回以上した。多い時には一日に 十一回もやらされて、義歯から血が出た。しかし喋ることには慣れてゐるので、大した疲労も覚えなかった。
これは謂はば種蒔き運動だったのだが、悪いと思ふ事は即座に斥ける代りに、善いと感じた事はその場で採用するのが米国人気質だから、果を結ぶのもわりに早いのではないかと、私いは楽観してゐる。
リンコルンの再生

今度の旅行で私が一番注意したのは、今も米国に、アブラハム・リンコルンの精神、自由と正義と友愛の精神が残ってゐるかといふことであった。
大正十三年に渡米した時の事であるが、私は一日、南加州で、約一万五千の米人を相手にして、宗教的立場から見た人種問題について、二時間ばかり講演した。みんなよく聞いてくれたが、或る日本の婦人が心配して、
「あまり米国の攻撃がひど過ぎます。少し控へてください」
と申込んで来た。しかし同じ話をメソヂスト教会の会員で大学教授の連中は手を握って喜んで、
「ほんとに普い事を聞かせてくれた。君の言ふ通り、米国は覚醒を必要とする」
と涙を流してゐた。さうやって涙を流してゐる者が三四十人も列を作って出て来た時には、私も気の毒になって、自分で泣きたくなった。悔いる心を持つ米人には感心なところがあると、私も感心してしまった。
私は叫んだのでゐる。
「かういふ事は、あなたたちを侮辱してゐるかも知れない。侮辱してゐるのだ。それが癪なら、引きずり出してください。私は神の名のために叫ばずにはゐられないのです。米国の憲法に何と書いてありますか? 私は米国の国歌を歌ふことをもう止した。私は十年前に来た時には、《おお自由の国、汝の名を我は歌ふ》と高唱しました。しかし私はもうその国歌を歌ひますまい。白人には自由かも知れないが、黄色人種には自由でないのです。私はアブラハム・リンコルンの名によって、米国を恥ぢる!」
かう言った時、私は誰かが飛び出して来て私を引きずり出すかと思った。しかし誰も出て来なかった。却って熱い涙が多くの人々の瞼に漂ふのを見たのである。
この時から既に十年以上になる。不景気と貧乏に喘ぎ、唯物主義の捕虜になって、彼等はリンコルンを見失ってしまってゐるのではないかと、私は心配したのであった。が、これは全く杞憂であった。後等の生活はぐっと精神的になり、教室や事務室に於いてさへ内在の燈火を愉しんでゐる様を、私は到る処で見せつけられた。
六月二十五日には、北部のレークサイド市で、私を中心にして、全米青年大会が催されて、四十八州から千八百人の代表者が集まって来た、みな二十代、三十代の青年である。どんなに窮迫しても、彼等は決して日本の青年のやうに死を考へない。彼等の魂は明朗である。金もなく、自家用白動車も持たない者は、路傍に立って、右の手を上げ、その拇指を自分の顔に向けて、三時間でも四時間でもじっとしてゐる。ひっきりなしに通過する他人の自動車に向って、
「君の行く方へ一緒に乗せて行ってくれ」
と無言の要求をしてゐるのだ。この方法で二三千哩ドライヴして青年大会へやって来た者も沢山あった。日本などでは、こんなのどかな風景は全然見られない。さすがは米国だと、私は感心した。
だが、私がもっと感心したのは、青年たちが集会に臨んで、非常に真面目で熱心だったことである。彼等の青春は精神的に高挙されてゐる。家庭に於いても、仕事場へ行っても、彼等は神と共に歩んでゐる。私はそこに何百といふリンコルンの再生を見たやうな気がした。
ケンタッキイ州のホゼンヴィルには、リンコルンの住んでゐた、一間半に二間くらゐの小屋が、大理石の御殿の中に保存してある。昔、ケンタッキイ州の野原に吹きざらしの小屋があり、その中でリンコルンの母は、産気づいて、リンコルンを産み落した。父親は呑兵衛で、その日もどこかをほっつき歩いてゐた。母はたうとう冷え込みで死んだ、といふ悲話を私は思ひ出して、御殿の中の小屋を見ながら、覚えず涙を誘はれたのであった。
インデアナ州にはリンコルンの遺跡が多い。彼が相撲をとった所、本を借りた所、詩を作った所といったものまで、大事に残してある。私は、私に初めて聖書を教へてくれた、親切で敬度な宣教師と同名のローガンといふ人が泊ってくれと言ふのを断って、そこの
美しい娘さんに案内して貰った。そして、リンコルンの遺物を保存するばかりでなく、彼の人格を尊敬し、彼の精神に同化しようと努力してゐる間は米国も大丈夫だと私は思った。米国はやはり自由の国、正義の国である。