性による死の到着 国際平和協会機関誌「世界国家」(一九四八年四月号)

 生存競争を経ずして、「性」というものが、先に地球に到着した。性が複合的進化をもって、あらゆる条件、客観的環境に適応しつゝ進化発展しようという目的を持ちはじめてから、地球の形相が違って来た。上へ上へと複合進化しようとすると、地球の上に原点があるので、全体から考えて明らかに古い型のものを省略する様になった。これが死である。又同時に、ある単体は、各種の化学的、物理的、電気的条件の制約が与えられている。従って、その消費が、固体に許された容量を超えると死なねばならない。例えば、性作用は電気作用であるから、あまり性的に昂奮して、イオン的チャージ(容量)を一度に大量消費すると死んでしまう。蟻は結婚期が来ると。羽がはえて、飛び上るが、二百匹の雄の中一匹のみ、女王蟻と結婚する事を許されるが、他の雄はみんな、性的昂奮のために死んでしまう。

 イオン濃度についても自然界は実に微妙につくられていて、魚など、各河川のイオン濃度の極く僅かの差を知っていて、ある川は鱒、ある川は鮭、ある川は鰊、ある川は鮎と、きまった川を遡って行く。実に驚くほど敏感である。従って最近のように、人造肥料――燐酸、硫安等を用いると河水が酸性になり、イオン濃度がぐっと変化すると。到底魚など住めなくなる。人間でも身体のイオン濃度が百万分の一違っても死んでしまうのであるから。

 さらに、性作用のみならず、喧嘩、憤慨、驚愕、等の激しい感情の変化のために、イオンを失って、急死する事がある。考え方によれば、人間は電池の様なもので、電池の電気の容量に制限があって、電気がつかなくなる様に、人間も制限があるから、使いすぎると死んでしまう。

  死の利用

 性の発明によって、地球上で進化発展をはじめると、生命の経済上、全体から見ても、個体から見ても、死が性に伴って来る必要がある。死ぬものならば、腐らぬ中にこれを利用したいという工夫があらわれる。これが特殊な生存競争の形を取って現われた。例えば雌のカマキリが、性作用を終って、死相のあらわれた雄を食って、卵にかえる。又ファーブル親子が、雌が雄を食うというギリシャ神話の伝説の真否をたしかめるために、十九年もかかって、やっと写真をとったというタリンチュラ(蜘蛛の一種)も同様である。

「三代虫」などは。母が死ぬ前に自分の肉を子供に食わして、子供が大きくなる。貝殼虫の母は子を守る為めに自己の肉体を貝殻に変化させる。これ等は人間にとって実に残酷に見えるけれども、どうせ、死ぬべき肉体ならば。死ぬ前にそれを子供に与えて、進化してゆこうという設計だと思われる。性作用が終ったら、子供や他の動物の犠牲になる。そして地球の上を進化発展の方に導いてゆく事が経済的だと考えられるが、自然界においても、実際それが行われている。

  地球を一個の卵に考えて

 鶏の卵が孵化する時、十二時間、二十四時間、三十六時間、暖めたのをとって顕微鏡で調べて見ると、最初に血管が現われ、だんだん細く分れ全体に行き亙り、黄味が全部吸収され、ついには白味も酵素により全体吸収されて、雛になるのである。この間に下等細胞である部分を吸収して、高等動物である雛が現れるすべての経過が見られる。これと同様に、下等動物をして、地上における栄養分をすべて吸収させ、さらにこの下等動物を利用して高等動物に変って行く、こういう面を考えなければ、生存競争のある反面は十分理解出来ない。地球を一つの卵と考えると、栄養を吸収する血管が、バラバラに独立した形で無防備のまゝ高等動物に吸収される形を取っているとも考えられる。

 鼠が猫に食われ鳥が虫を食う。生存競争は確かにある。しかし生存競争があらゆる動物の間に、そのあらゆる部面に滲透して現われているかどうか調べて見るなら、食われるものすべてが、防備していると限らない。アミーバ、昆虫、環虫類等は、既に何億年、全然無抵抗で生存を続けて来ている。これを考えると、生存競争は人間が想像するように激烈でないと結論せざるを得ない。

 ダーウィンの説以来、あらゆるものが激しく生存競争をしているというが、三万種もある魚の中、有毒なもの――毒腺分秘による防禦策をもっているものは百種にすぎず、数万種もあるバクテリアの中、有害なものは極く僅かで、殆んどすべては無防備で生存をつゞけて居る。それ所か、人間の腸の中では、バクテリア酵素性を発揮して人間を助けていてくれる。生存競争ばかりでなく、動物と動物の間には助け合いがある事は認めないわけにゆかない。その他考えねばならぬ事は、動物は小さいほど生活力が強いという事である。身体が大きい程故障が起りやすい。

 英国のダーウィン以後一番有名な生物学者ハルデン卿は、生存競争の奥にも神が宇宙をその目的性をもって支配している事を力説するのであるが、彼の論文の中に、蟻は何故小さいかというのがある。蟻は肺を持つ必要がない。皮膚からすぐ酸素の供給が受けられるから、皮膚から直接酸素の供給をうけ得るのは半時間以内に限られているから、これによって生物の大きさが制限されている。

 いもむしの様に太っていても、直径一吋以下でなければならない。そして動物は小さくなればなるほど、高い所から落ちても死なない。鼠などは、炭坑で千尺もある堅坑に落ちても、死なない。人間は二間も落ちると死んでしまう。蟻など、どんなに強い風に吹かれて、どんな高い所から落ちても死なないで、落ちるとすぐ走り出す。実に生活力が強い。

  統計学と生存競争

 以上述べた事を考え合せると、生存競争はたしかにある。しかし、絶滅競争はない。又概算的に、いいかえれば――統計的にいうならば、生存競争は種の保存を害しない程度のものである。生存競争が少し位あっても差支えない、百何十万種という動物の種は、人間が無理をせず、極端な気候の変動のない限り、大体持続する。世界には驚くべき調節がある。さらにその反面として、我々の考えねばならぬのは。生存競争を減らそう減らそうという努力がこの世界に幾十となく現われている事である。

 第一に外部的にいうと、(一)時間の関係(二)気象の関係(三)温度の関係(四)水即ち湿度の関係(五)地域(六)各種の本能の関係、この本能の中に、(一)空中に飛び上るもの、(二)水中に潜るもの、(三)土の中に隠れるもの(四)猛烈に早く走るもの、(五)亀の様に固い防禦をもつもの、及び、(六)獅子の様に、他の動物を食うものがある。従って、生活の空間格子からいうと、猛烈な肉食生活をするのは六分の一に過ぎない、全部の全部が自分の仲間や他の動物を食っているのでは決してない。

  生存競争抑圧の諸勢力

 その反面、ちゃんと内側から見ると(第一)卵が、殼の中で、常に正系発生をとげて、雛になる。世界で毎日、何億という卵が孵化しているが。それがすべて間違いなく雛になり、遺伝的にも間違わない。(第二)更にこの発生を胎盤が保護している。哺乳動物の胎盤には次の五種類がある。一、卵の様なもの、二、豚の場合の如く、丸い胎盤に沢山くっつくもの、三、熊の場合の如く、底なしの状袋に両側から首をつっこんだもの、四、袋の中に水があって、その中に数匹入っているもの(牛の如き)、五、二重の袋の中に水があって、その中に普通一匹入っているもの。

 人間の如き目に見えない胎盤にまで無意識の中に、不思議な設計が働いて保護されているのに気がつくと、全く驚歎せずにいられない。生存競争は胎盤と関係づけて考えねばならない。そこには何か、我々にまだ分っていないが面白い関係があるに違いない。(第三)性細胞における進化の方向を考えて見ると、昆布の如き、下等動物では、性細胞は一つだけであり、鳩においては二百の細胞が一つの性細胞を防衛し、人間では、何千という細胞が一つの性細胞を護っている。この様な無意識保護の中に宇宙の設計を見る。

  社会愛の進化

 その上に、性愛の保護が加えられている。下等動物から高等動物まで、一貫して、実に美しい夫婦愛が保たれている。人間ほど夫婦愛が乱されたものはない。私の訳した、アルファデスの「動物社会学」に見らるゝ如く、下等動物は厳然たる愛をもっている。性発動の時期が決定して居り、大体、一夫一婦が行われている。さらに、友達同志の愛、友愛の保護がある。これはクロポトキンが相互扶助論に説いている所であり、又今春のりーダース・ダイヂュストに鹿が、密集して、その角を組合せして。バリケードをつくると、豹、虎等の猛獣も近づけないという記事があったが、こゝにも友愛関係が見られる。

  動物界に於ける道徳進化

 今から十年前、山東省の維県のキリスト教大学で行われた、華北の教師の修養会に講師として行った時、北京の宣教師で鳥類の研究家であるワイルダー氏から面白い話を聞いた。冬のある朝、彼が、自分の家の食堂で、食事をしていたら、「ツグミ」が、彼の飼っている鳥に誘われて入って来た。よく見ると怪我をして、ビッコをひいているので、治療してやった。すると翌朝そのツグミが他の数種類の、悉く怪我している鳥をつれて来た。それで全部治療してやったが、鳥にも「道徳のはじめ」があるのに感心したと、語られた。

  生存競争の調節、統制及び支配

 世界の現象を見ると、世界苦は確に存在する。しかし、生存競争を利用して、進化発展に役立てよう、然もその進化を通して、生存競争をのりこえ、却ってそれを最少限度に食い止めようとする面白い有機的合目的性の働いている事も事実である。愛の進化そのもの、生存競争以上に伸び上って、世界をなくしようという運動が生命の内側から目ざめつゝある事は否定出来ない。そしてこの運動、この宇宙の努力は世界苦の救済として働きつゝある事も否定出来ない。この世界苦の救済に働いている宇宙の努力を最もよく自ら自覚したのがイエス・キリストの愛である。

 世界苦の存在を否定しない。しかし、苦痛が救済せられ、苦痛をすら利用して、人類が宇宙全体を進化発展せしめ得るならば、苦痛は光栄にかわる。イエス・キリストは十字架を自分の目標と見定めた。そして神と人とを愛する愛、人の罪をも贖わんとする愛をもって、自ら選んだ十字架の道を勇敢に、まっしぐらに歩んで行った。その時苦痛が苦痛でなく光栄に変った。これを宗教という。

 ドイツの哲学者オリゲンは、「我々は世界苦の何故に宇宙に発生したか、その理由は知り尽し得ない。しかし、一つ知っている。即ち、神の力により、すべての苦痛に勝ち得るということを」といっている。この苦痛即ち世界苦に勝ち得て余りある秘訣を神に授けられるならば、世界に苦があっても差支えはない。我々はイエス・キリストとの美しい愛の事業において、その秘訣を発見する。イエスにあらわれたる如き神の愛を今、我等のものとするならば、あらゆる世界は征服される。  (一九四八年四月号)