地球の覚醒 国際平和協会機関誌「世界国家」(一九四八年十月号)
――世界連邦国家の出発――
春が来れば、蕾は開かずにはおらぬ。太陽が南から帰れば結氷は解けるものなのだ。霊魂の蕾が! そして人間の意識の結氷が不安定になった日に全人類連帯の世界連邦の芽が生えるのだ。それを空想と笑ってはならない。誰れが南太平洋の喰人種が意識的に喰肉の蛮風を捨て、新しい民主運動に目醒める事と考えるだろうか? 蒸汽文明と十字架意識が全くそれを可能ならしめた。
原子力文化と十字架意識は世界を連邦国家に導かずには置かない。原子力の為に世界は余りに狭ま過ぎ、十字架意識の前に人類はあまりに闘争に偏り過ぎる。――だが結局は意識の問題である。意識の花が開けば、理法の秘術が真理の世界に我等を追い込む。意識は幼児より少年期に、少年期より、青年――壮年期にその領域を拡大する。階級意識の時代はまだ半覚醍期の時代である。
社会の半分が目醒めても真の平和は来ない。世界意識もそうだ、宇宙意識が全人類意識に行動表現を取り得た時に、世界歴史は良心の自覚史と意識内容を等しうするようになるのだ。
個性の目醒めなくして、物質が意味を持ち、効用を持ち、組立てられ、波動性の進行過程を持つ「力」そのものの束であると云うことを充分発見することは出来ない。物質が条件として内容を形成することを自覚するのも、実は内側の制約に気付いて後のことである。
内側に目醒めないものが、どうして、外側の構造に気付き得るものか? スクリーンが白くなければ、映画にはならない。映画機が精巧になるにつれて、客観の物象の内容を直視し得る機会が多くなるのだ。意識の蕾の開く日――その日にのみ世界連邦国家は可能となる。
こうした精神的把握の上に、世界国家は樹立される。そこにユートピアが、ユートピアでなくなり、動機が実現の可能性と直結する。意識の開発が発明の可能性を物的原子世界から引出すのだ。意識の世界に与えられたフヰルムが、物的世界に映写されるのだ。世界連邦の憲法はこの世界映画の一つである。
「心」を見ないものはこの可能性を疑う。しかし「原子力」を発明し得た「心」が、世界連邦制の確立を発明し得ないとすれば、それは、人類の理性そのものを疑う自己撞着に陥っている。
人類の解放はこの世界連邦国家の道の外にない。そこでは凡ての国の小さき派争が中止され、公義と親切が伝統とならねばならぬ、
「汝、人にせられんと思う如く人にもせよ――」。この人類最上の憲法が、世界法として産れ出でんとする世界意識の目醍めの前に、私は世界の春の前祝をする。
東雲は白みそめた。意識の目醒めは逆行を赦されない。我等は全人類を解放する為めに世界国家の為めに立ち上る! (一九四八年十月号)