北氷洋の聖雄グレンフェル 国際平和協会機関誌「世界国家」(一九四八年十二月号)

  伝道は冒険である

 ダブリュ・トムソン・グレンフェルは七十数歳、今猶健在でカナダの北方ラブラドルに、医療ミッションを経営している。彼は一八五六年二月二十八日に英国聖公会の信仰を持った貴族的な家庭に生れた、幼い頃から学校がよく出来て、高等学校時代には特待生であった。後ロンドンの大学に学び、医学士になった。二十歳、医科大学二年生の時、当時英米で有名であったムーデーの弟子ステットによって改心し、クリスチャンになった。彼の父は学校の教師であったが、後にロンドン病院の附属教会の牧師になった。叔父はアームストロング工場長で、大砲や望遠鏡の発明者であった。

 十六歳の時、肺病になり、一年間フランスの南方で保養した。二十歳前後から海に関する研究をし始め、夏になると小蒸気に乗って海に出て行った。二十二歳の時、医者になる免状を貰った時、サウスポール公爵がニュウフォンドランドやラブラドルを見て帰り、その悲惨な状態を訴えたのを聞いて彼はその地方のために献身することとした。その前から、彼は漁民の間の巡回治療班の計画をたてゝいたので。早速治療ミッションを起した。

 彼は二十歳頃から日曜学校の教師になり、貧民窟のために奉仕していたが若い時から肺病のため冬になると屢々倒れかけた。しかし、彼は漁民の間に伝道している問にラブラドルに行く決心をした。

 ラブラドルは、不毛の地であるが、春の初めになると、にしん、たら、アザラシ、ラッコ、オットセイを捕えに来る人で賑わった。この地方にはエスキモーやラック人種が住んでいるが、医者はいない。診療に行くのにも船でゆかなければ診療事業が出来なかった。彼は、イギリスから三千哩もある処をわずか二十噸の船で出かけることにしたが、その無謀な企てに賛成して船長になってくれる人が最初はなくて困ったが、幸い人が与えられて、二十八歳の時その地方へ渡った。そして二十八から今日まで五十年間、北緯六十三度の地で辛抱している。リヴヰングストンを南方赤道直下の地に与えられると共に、寒帯地方の伝道者として、やはりイギリスから、グレンフェルを与えられたことを嬉しく思う。

  航海者としての彼

 グレンフェルが二十噸級の小さな船で航海中、アイルランドの沖で霧のため難船し、十二日間何も見えなかった。それを無理して航海しているうち十七日目にようやく霧が晴れ出した。ナイフで切れるような霧と書いてあるからよっぽど濃い霧だったと見える。霧がはれて見ると、すぐ前に陸地が見えた。セントジョン港という処であったが、そこが彼の伝道地になった。

 然し上陸してみると、そこはちょうど第三回目の大火で燃えている最中で病人が次々とあって漁師は非常に可哀そうな状態にあった。彼は見るに見かねて診療をした。彼は三十歳の時一度故郷に帰り、募金運動を始めた。すると、モントリオルの金持が、三間二尺の帆前船をくれたので、それに乗って北へ出発した。処が、またしても海が荒れ、難船して、ずいぶんひどい目にあった。彼は小さい時から海に経験があるので、その小さい巡回医療船を操っては、港の村々町々を廻った。こうして事業をしていくうちに、事業が自然三つに分れた。第一は医療事業、第二は教育事業、第三は協同組合事業である。私はグレンフェルの伝記を読んでいるうちに、何だか私が歩いた道と同じ道を彼も歩いたというような気がした。
 彼は、漁師が非常に貧乏だということを感じた。彼はもちろん全部無料で医療事業をしていた。国教会の社会事業部の援助を得たり、友人の援助をかりて施療をしていたが、漁師達があまり貧乏なので、病気を治してやってもまたすぐ病気にかゝる。それで、病気にかゝってから治してやるよりも先ず貧乏を救わなければ駄目だ、という予防医学の必要に気がついた。

 彼はこんな事をいう。「たゞ普通の宗教生活は、人を無智に陥れる」と。このラブラドルは、前にモレヴイヤの人が伝道していたことがあるが、その人達がした方法ではだめだと彼は思った。

「無智はこの海岸における苦悩の原因で我々の宗教は無智を養いつつある」と彼の手記に書いている。で、宗教がたゞ有難い気持を起すだけで生活を改造し得ないようでは不十分だ。どうしても個人及社会を救わなければならぬという気持を起させなければならぬ! と彼は考えた。

  彼の産業伝道

 彼はまた、患者の病気が治って、この世に長く生き永らえても、受ける利益がないから、どうしても根本から解決を与える予防医学をしなければほんとの医者とはいえぬともいっている。「自分がただ医療上の慈善を選ぶ時、愛は感傷的になる」と彼は書いている。グレンフェルは北緯六十何度という寒い処で伝道してみて、多くの病人が栄養不良に泣いている間は伝道も不可能だと思って、産業運動を始めた。最初消費組合を十作った。初めは一割の配当を出して三百弗の利益を得た。が、しまいには二万五千弗の損害を受け小さい船を売ってその損を償った。しかし、全部の組合を整理すると、どの組合も成功した。

 彼はその他に木材会社をつくり、次には馴鹿を飼うことにした。青い物がなくて、あるのは凍土という苔ばかしであるから、それを食って生きている馴鹿を飼い、その皮をとった。馴鹿の皮が一枚あれば、雪の中で困らない。グレンフェルはよく森の中に寝たと書いているが、その時は馴鹿の皮で作った袋の中に這入って首だけ出し、頭から皮をかぶり、皮と皮との間に手を入れて寝た。それは羽根布団で寝るより気持がよかった。寒い土地では、辛じてこの馴鹿の養畜が出来るだけなので、彼は後援者に頼んで、三百頭最初飼った。それが成功して千三百頭位にふやした。ところが、あちこちで飼いたいといって彼を助けている人を引きぬくので、ついに一人もいなくなり、馴鹿もいなくなった。それでとうとうやめてしまった。ロシヤでもシベリヤ沿線にこれを飼う計画をしているというか、馴鹿の肉も乳も山羊位うまいから北の牧畜でこれ程いゝものはない。

 それはともかくとして彼の事業で現在も続いているのは製材所と共同組合のみである。彼がこうした経済運動をしなければ、結局ほんとの伝道が出来ぬといっているが、もっともだと思う。彼は外科医として病院をセントアントニーという処にもっている外、カナダに近いセントローレンスと、ずっと北端の二箇所に病院を作った。が、医者の手がないから、いつも自分で住込んでしなければならない。そのために随分冒険しなければならなかった。

  氷上の漂流

 彼がラブラドルに行って間もない時であった。三月から四月にかけて、海豹の漁が始まる。日本では五月であるが、日本の蟹工船と同じ方法でゆくのである。その海豹とりの衛生の悪いのには驚いた。グレンフェルはその海豹とりを見に行こうと十二人の者達と一緒に氷上を歩いて出かけた。ラブラドルの海岸は東風が強い間は大丈夫だが風がとまると氷盤が溶ける。グレンフェルの一行が気が付いた時は、自分達の乗っている氷盤が流れていた。だんだん夜になってゆく、寒くてやりきれぬ、それが零下二十度三十度という寒さだから困ってしまった。じっとして居れば凍死してしまうので、蛙飛びや繩飛びをして運動して始終動いていた。すると真夜中にボートが来て助けてくれた。

 それから十三年目の一九〇八年の四月二十六日のイースターの晩、自分の根拠地の六十哩彼方から犬橇にひかせて迎えに来た、二週間程前、大腿骨の手術をしてやった青年が、痛みがひどく困るという。そこで、早速彼は、犬橇に乗って出かけた。彼の家から海岸まで出て一泊し、そこから氷盤の上を対岸へ海岸線にそって行けば遠いので湾に氷が張っているのを幸い一直線に行くと早いと思った。初め三哩ばかりは無事であった。が、土をふくんだ氷盤が一番危い。彼が気がついた時は、自分の橇の乗っている氷盤が沖の方へ流されている。よく見ると、自分の乗っている氷盤は他の氷盤と較べるとずっと小さい。で、彼は大きい氷盤に泳いで渡ろうとした。長靴を二匹の犬にくゝりつけ、他の犬に自分の体をくゝりつけて泳ごうと思い試みに一匹の犬を泳がせたが、どうしても泳いでくれない。そんなにしているうちに、湾から十哩も沖の方へ流された。しかし、そんな時も信仰深い彼は少しも心配しなかった。
 仕方がないので彼は長靴をさいてシャツにし、足が凍傷にかゝったので、犬を結んであった麻繩でそれを括り三匹の犬を殺して、その生のままの皮を頭から被って漂流して行った。そして一匹の犬を抱いてうとうとしているうちに夜が明けた。その前に彼は殺した犬の骨を麻繩でくくって繋ぎ、その先に布片を結んで旗として立てた。

 朝方、海岸の岩の上で海豹を料理しようと思って出て来た漁師が、その旗を見つけて、十人の漁師が組んで救いの船を出してくれた。彼は助けられたが、凍傷のため自分の病院で十日間寝たという。

  彼の印象

 私は二十年前、神戸でグレンフェルに会った。私よりちょっと大きい位の西洋人としては小柄の人である。或る人は彼をキャプテン・グレンフェルというくらい、船乗りのいでたちをしていた。

 その後、彼は、ケムブリッジ大学から医学博士の称号を貰った。また皇帝からは「サー」の爵位を授けられた。彼は北極のような寒い処に来て苦労する婦人はないと思っていたので、四十四の時まで結婚せずに送ってきた。ところが、事業を始めて十六年目にイギリスへ出て、ラブラドルに帰る途中、シカゴの銀行の頭取の娘さんと知合い結婚することになった。この奥さんになった人がまた、しっかりしていて、いま子供が三人あって、みんな系図正しい人の名をつけている。

 その後、彼は、海岸の測量事業をしたり、裁判所の判事になったり、いろいろの方面に苦心しているが、彼が一番力を尽しているのは、禁酒運動である。漁師は酒のために没落しつつあるのだと思ったからだ。そうした北方の困難な闘いのうちに事業を続け、奉仕の生活を今もなおつゞけてぃる。われわれが彼から学ぶことは、伝道は冒険ではあるということである。冒険なくして善き伝道は出来ない。

 北極の雪にも氷にも恐れず、愛と親切をしようとするためには、二十四時間も氷盤の上にだゞよわなければならない時もあろう。伝道や、愛の事業を単にセンチメンタルな気持からしてはならない。温いストーブの側で説教をするのが伝道ではない。我々も命知らずの伝道をしたいものである。(一九四八年十二月号)