盧溝橋事件で北京を守った清水安三
3月に財団法人霞山会と財団法人国際平和協会が共催で、北京の朝陽門外の聖人といわれ、戦後、桜美林学園を創設した清水安三の日中友好に尽くした偉業を振り返るシンポジウムを開催する準備をしている。
そのため清水安三『石ころの生涯』を数日前から読みふけっている。清水の偉業は単に北京の孤児たちのために尽くしただけではなかった。『石ころの生涯』には多くの驚きがある。今日はその一コマを紹介したい。
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昭和12年7月7日、朝十時ごろだったかと思う。いつものように学校で教えていいると、「朝陽門が閉まりました。昨夜、盧溝橋で日支の衝突があったそうです」とのこと、これを聞いた女学生の一人がサッと顔色を蒼白にした。
「いよいよ戦争だ。2、3年も前から日支は相戦うに至るであろうと予言していたが、とうとうその時がきたんだ」
昼食の時、遠雷のような砲声を聞いた。十日には北京、天津間の汽車が不通になった。毎日、砲声が西郊、南郊から聞こえるが、私はいつもおと少しも生活様式を変えず、宅に預かっていた東京の青年と共に、町を歩き回った。
ある日私は、ふと思いついて、東交民巷の特務機関長の公館を訪れた。機関長の松井大佐は折悪しくご不在であった。
そこで私は秘書の武田氏に面会して、「むかしナポレオンがモスクワを攻めた時に、クレムリン宮殿を壊すまいと欲して、ロシア軍に協力を申し込んだということです。すなわち、ロシア軍にクレムリン宮殿から程遠い地点に行くように要請したのでした。また日本では西郷隆盛が日光に立て籠もった幕府軍に、一寺の僧を使いとして遣わし、名跡を戦火より救うため、賊軍の山門より出て、何処へなりと移動するよう要請したことが伝えられています。なんとかして北京を戦場にしないでほしい」と詢々と申し上げて家に帰った。
ところが、帰宅して、恰もひざまずいて神にお祈りをささげていると、その武田氏が、しかもフォードになって拙宅へフウフウ言ってやって来られたではないか。