「五月雨」―賀川豊彦著『壁の声きく時』

 音をたてて霖雨が降りしきる。

 天は惜しげも無く、真珠の玉や、水晶の玉を下界へ投げつける。それが五色に塗ったように輝いている貧民窟の瓦屋根の上で砕ける。パリパリと音がするのは真珠が瓦に当って砕けた音である。バチバチと響くのは水晶の玉が破裂した音である。

 普段は煤煙のためにコークス色に染まって居る低い十軒長屋、五軒長屋の穢ない屋根でも、雨が降ると水の不思議な奇蹟によって、種々の色彩に反映してみえる。たとえば竜宮に住んでるかのようである。

 長屋から立ちがる烟が紫色に見える。それが聖堂の香の煙のように悠々と曲線を描いて天に昇って行く。紫の烟を通して見た瓦屋根がまだ何とも云えぬほど美しい。

 こんなに毎日々々雨が降り続くと、水の底に住んでいるのでは無いかと思われる。慥かに水の底に住んでいるのに違いは無い。人間に鱗が生えては居らぬばかりだ。人間は水の中に游いでいるのだ。

 天から無限の水が降ってくる。こんなにも、よく水の種が有ったものだと思われるほどである。しかしそう思うのが間違いで、水中に住んでいると思えば、美しい世界も有ったものだと思う。

 交易風が南から吹くようになると、南の方から風が蒸気を北へ運んでくる。それは昔、南蛮人を運んだのと同じ理由で、色々の変わったものを日本の列島に送り届ける。灰色の天地に、水晶を運び、ひからびた黒土の世界に真珠を蒔いて行く。虹もその運ばれるものの一つである。虹が運ばれるついでにルビーやサファイヤアも混じっている。これらの贈物はすべて無代価である。

 交易風はそれ等をすべて無代価で日本に残して行く。

 新見栄一が、ユタの沙漠から帰って、第一に感じたことは日本の雨の美しさであった。一年間に二十ミリしか降らない処から一年間にその幾百倍も降るところに帰ってくると、雨がうるさかろうはずであるにかかわらず、灰色の天地から新緑の日本に帰って来た彼には、降雨による天地の変化が、またとなく美しく見えた。

 栄一は、降り続く五月雨を享楽した。サアと降り落される水滴の一つ一つに和蘭陀(オランダ)で出来たギヤマンの彫刻物のように雨の滴にも何か彫りつけられであるのでは無いかと思う位美しくそれを感じた。
時によると、それが硝子製の棒を天から投げるようにも思えるし、また時によると、ギヤマンの水簾を天から

 吊り下げてあるのでは無いかとも考えた。

 雪も美しいが、降り続く五月雨は特に美しい。一雨一雨と新緑が深くなって行くのが見える。幾億兆滴の無色の雨が、幾億兆枚もある植物の葉に緑を塗って行くのだと思うと、もしや緑雨と云うものは無いかと疑ってみる。そう思って雨を見ると、雨は碧色に見える。

 躑躅(つつじ)が咲いて、霧島が綻び、芍薬、薔薇が紅の蕾を破ると、五月の雨は紅を天から撒いたかと思われる。そう思って、五月雨の空を眺めると、五月雨の夜は薄桃色にほんのりと乙女の恥じらいを見せている。

 錆びたブリキ屋恨の上に雨が降る。そこでは雨が鉄色に降る。紺の衣服が漏れたままほされてある。そこには雨が紺色に降る。紺、黄、青、紫、紅、緑、・・・五月の雨は奇蹟のように色彩に豊富である。
雨垂れが楽隊をやる。聖楽ハンデルが鍛冶産の軒端で作曲したアンヴィル・コーラスが聞こえてくる。

「雨垂れ、ぽっつりさん、
 雨垂れ、雨垂れ、
 ぽッつり、ぽッつり、ぽッつりさん」

 やがて少女歌劇のコーラスがそこに聞こえる。長屋のところどころで、意味をなさない発音が雨の音楽の間々に聞こえる。それが幽闇の世界から響いてくるように――また海の底の反響を聞いているように響く。

 傘をして路地に出ると、いつもならば穢ない道が、金砂か銀砂かを蒔いたように輝いている。水溜りが光線を反射して光る。すべてが今、焼き釜から出したばかりの陶器のように艶々している。地球も大きな陶器のようなものだなと栄一の頭に響いてくる。

 地球が大きな陶器ならば、雨はたしかにその彩薬(うわぐすり)である。自分が踏みしめて行く一歩一歩が輝きの焦点である。自分は皇帝の玉座に立っているより貴い所に立っていると云うような気がする。天気だと、輝きが天にのみあるが、五月雨は大地を包む光栄の彩薬である。

 傘の骨から滴がぽつりぽつりと落ちる。それが一つ一つ玉である。玉が延び縮みをする。延び縮みをする毎に、玉の色彩が変化する。それはあたかも孔雀石が見方によって色彩を変化させるようなものである。

 傘をさして外に出ると傘が蔽ってくれているので濡れはしないが、水の中を游いでいるようだとも感ずる。それが何だか神秘であるようにも考え、また、五月雨には濡れた方がよいのだ、雨にかからないものは自然の一部分にはなれないのだなどと考える。そんな時には栄一はレーン・コートのまま、外に飛び出して、頭から温かい五月雨を浴びる。頬を伝って露が降ちる。それを舌で舐めると、甘露よりも甘い。

 自然的生活! 自然的生活! 栄一が自然的生活を好愛すればするほど、雨の日が彼を楽ましめた。

 雨は甚しく貧民長屋を変化させる。雨でも降らなければ、天をも見ない二足獣が、太陽の出る日は喧嘩ばかりしているに、雨が降ると、家に引き籠って考え込んで居る。考え込むことは善いことである。あまりに忙しく、何をしているか反省の時も無い動物に、雨の日が幾日も続くことによって、自分の迷路を冥想させてくれる。雨の月は印度でも瞑想の月であった。栄一にとっても五月雨は彼を冥想に導く。

 彼はすべてに就いて感謝した。そして彼は日本の雨を特別に感謝すらことにした。

 ・・・五月雨が降り続く。・・・銀の雨が毎日貧民窟の瓦屋根の上に落ちて来る。それが物静かな夜になると、特別に善い。平生ならば宵の口に二つも三つもある喧嘩が、雨の晩に限って一つも無い。聞こえるのはただ屋根を打つ雨と雨垂れの音楽だけである。

 貧民窟の小溝が水で一杯になる。そして傾斜の激しい新生田川は、五月雨がすべての汚物を瞬く間に流して行ってしまう。川のほとりで雨に濡れても善いように裸になって子供等が群をなして遊んで居る。いつも水の無い名ばかりの川も五月雨には祝福せられる。

 天は惜しげも無く、宝石を天から投げ落す。光線の恵みのわからぬ心にも、投げられた宝石の恵みは善くわかる。

「おっさん、雨が少し長過ぎるなア」
 通りがかりの男が、筋向かいの衛生人夫に出ている鶴田の阿爺さんに挨拶すると、
「さアもし、この雨がないと、苗代が立ちまへんのでなア」
 と鶴田の阿爺さんは空を見る。

 狭い二畳の室で聞いていた栄一は阿波の田舎で苗代の立つ頃のことを思い出した。

 白雨が苗代を水で一杯にたたえてくれる。蓑笠を来た男が手桶を持って畦道を跣足で急ぐ。栄一もそんな姿でよく男衆の後から附いて行ったことがある。赤い鋏を持った弁慶蟹が人の足音に驚いて畦の横に作った穴の中に駈け込む。青蛙も泥水の中に跳り込む。猫柳が細長い枝に青い細長い葉を、まばらにつけて、淋しそうに雨に漏れている。苗代には絹糸のような苗が青い毛氈のように密生している。豊受大神のお札が竹の串に挟まれて「水口」にさされてある。お札に祀った「あられ」と焼米が小鳥に啄ばまれたと見えて、広く散らばったまま雨に漏れている――

 その光景が、栄一の眼の前に浮んでくる。なるほど、五月雨が長いと云って不平も云えない・・・と頷ずかれる。雨がなければ稲作が出来ないのである。百姓にとっては五月雨は正に宝石以上の価値がある。

 五月雨が降り続く。衣服も何にもベトベトになる。皮類には黴が生える。火で焼いた瓦が水のために溶けはしないかと気遣われる。その心配がなくとも瓦が雨の中に游ぎ廻る心配がある。

 しかし、鰈(かれい)か「ひらめ」のように「瓦」が長雨の中に游ぐことを覚えて、毎日悦んでいる。
 それが貧民窟の二畳敷御殿から引いていると善く見える。平瓦が鰈なら、丸瓦は栄蠑(えい)のようなものだ。人間は鰈と「ひらめ」と栄蠑の親類だ。一種の人魚だ。

 冥想と空模様は、すべてを神秘に導く。栄一はその囁きに聞き入った。そしてまた神秘的にでも考えなければ、五月雨に閉じこめられた貧民窟に生活することは、余程困難であった。