新見栄一が見た関東大震災

 それは九月一日の正午であった。
 新見栄一は、法華経に関する論文を書いてゐた。その時、彼は小さい地震を感じた。その日の午後、新聞の号外が出た。然しそれには別に大したことも報ぜられなかった。たy電信電話が不通だとあったのみであった。

 その翌日は日曜で、彼はいっもの通り午後六時から朝の礼拝に黙示録の話をした。礼拝の後に阪神の打出から礼拝に来てゐた本田氏が、大阪毎日新聞を、彼に示して、
 『えらいことになりましたなア』と云ふ。

 それまで、彼は関東地方に、そんな大地震があったとは知らなかった。大阪毎日の第一頁を彼は詳しく読んだ。彼は直に神戸市内の各教会に檄を飛ばし、関東救援の運動を起した。そしてその日の午後四時には、彼はもう関東救援の第一船山城丸に乗込んでゐた。

 二万尺以上も立ち上ってゐる横須賀の焔を左手に眺め乍ら、山城丸が横浜に着いたのは九月三日の午後八時過ぎであった。市内はまだ四ヶ所に焔が盛んに燃えてゐた。その中でも横浜停車場方面のライジング・サン石油会社の火と、居留地に近い米国海軍貯炭庫の火が最も大きかった。

 市内の電燈は全く消え、人気は無く、荒涼たる砂漠を闇の中に望んでゐるやうであった。港内深く這入ってゐる軍艦から頻って発火信号をしてゐる。凡ての汽船は港外に碇泊して一つとして港内に這入るものはない。

 汽笛を鳴らして入港の通知をするけれども、誰一人として出て来ない。船長は、『今夜は此処で停船して明日未明に上陸せしめる』と告知した。冒険好きな新見は『短艇を降ろして直ぐに救援に行かしてくれると善いになア』と考へたが、さう云ひ出すものは誰れもなかった。それで不本意ながら、彼はもう一晩三等船室に這入って寝た。

 翌朝、午前四時半、太陽がまだ昇らぬ先に、望遠鏡を取って、横浜市を見てみると、横浜市は完全に瓦の横浜であった。そこには一つとして完全な家は立ってゐなかった。見渡す限り焦土が続いてゐた。その中に、あちらからも、こちらからも水夫が小舟を漕ぎ寄せて水と食糧を貰ひに来た。

 それらの人々の云ふことを聞くと全く想像以上である。一人の水夫は物語った。
 『九月一日の正午二分前にね、私はブリッヂの上で番をしてゐたのです。その時、船は急に傾いて沈没するのではないかと思ったほど揺れました。それで地震だと云ふことに気付きました。その時、ゴーと云ふ地鳴りと共に、横浜は西の方から波を打って倒れて行きました。そして砂煙と共に横浜の市は全く見えなくなりました。船は津波にひかれて、四五町沖の方にずれ、またどっと、波止場の方へ打付けられさうになりました』

 その中に鮮人騒動の話が伝はる。上陸の準備するものはみな武装する。山城丸が焼け落ちた横浜ドックの前に錨を入れると共に、新見は電信工夫と一緒に上陸した、−たゞひとり武装しないで。横浜市は瓦と石と屍で埋ってゐた。

 それから、彼は徒歩で東京に這入り、東京の七割五分まで焼け落ちてゐる光景を詳かに見た。彼は神田美土代町の焼け落ちた青年会館の基石の間に膝頭を埋めて神に祈った――『破壊は之で充分です願くは神よ、日本を興し給へ』と。

 『社会主義者ハ見付ケ次第申出ラレタシ、××自警団』と所々に貼紙がしてある。新見は危険で救済に手を出すことも出来なかった。それに東京の人々は少しも現金を持って居らない。

 新見は一先づ、関西に帰って、改めて入京し、第一線の人々の疲れた時に奉仕に来ようと、再び横浜に引返し、神戸に帰った。十月五日、彼は関西各地より集めた義損金を持って再び東京に這入った。社会主義騒動も鎮まり、第一線の人々は既に疲れてゐたが、東京はまだ捨てられた儘荒野の姿で立ってゐた。彼は三度目神戸に帰り、彼の書籍を売払って、十月十七日、イエス団の有志と共に三度目東京に引返して本所松倉町にテントを張った。

 その頃本所に建ってゐるものは卒塔婆ばかりであった。被服廠と松倉町の間を遮るものは何物もなく、夕の勤行の太鼓が天幕の内によく聞えた。

 十一月一日に組立バラックが建った。そして、神戸から磯村ドクトルの一行がやって来た。無料診療が始まる。新見は急がしく救済運動に駈け廻った。十一月の中旬になってバラックは急に殖えた。そしてバラックに奉仕する同志の数は漸次殖えて行った。奉仕者はみな一緒に愉快に労働し、共に神に祈った。十一月四日の朝、京都から出て来た一人の大工が彼を訪ねて来た。

 『私は自己の利得を捨てゝ、東京の貧しい人々の為めに、家を建てゝ上げたいと思ひます……』
 彼は名を上田貞太郎と云うて、二十四歳の青年であった。新見は彼を歓迎した。
 『では早速、無料診療所を建てようぢやありませんか!』
 かう云って、新見は上田を連れて土地の測定にかゝつた。

 上田は早速一人で、柱の墨付にかゝつた。八日目に棟上げが出来た。多数の奉仕者は皆集って、各々柱を運び、板を運び、暮頃には約二十坪の診療所の建築物が綺麗に組立てられた。

 『万事、この調子でね』

 新見は梁の上に立ってゐる上田にさう云うた。そこへ、ひょっくり大阪の弟の益則が顔を出した。

 『何をしに来たんだ?』
 さう兄の栄一は弟に尋ねた。

 「もう商売もつまりませんさかい、今迄のことをすっかり捨てて、皆様の仲間に入れて頂きたいと思って、御厄介になりに参りました』

 益則はいつもと違って顔が輝いてゐる。――
 『今度は、ほんとに凡てを捨てて来たのか?』
 兄は弟に尋ねた。
 「今度は凡てを捨てて来ました。もう金に対する執着は少しもありませぬ。たゞ借金だけが、私を見捨ててくれませぬ』

 日はだんだん暮れて行く。被服廠から夕の勤行の太鼓が聞こえる。遠くに紫の雲に包まれた富士が見える。浅草から日没の鐘が響いてくる。みな暫らく手を休めて黙祷をする。……