日本の失業保険が始まるのは神戸

 日本において、失業者共済組合を最初思い付いたのは、神戸新川の貧民窟の私の伝道を永く助けていて下さる竹内勝氏である。彼は神戸市の不熟練労働者の間に、私の忠告に従って共済組合を組織した。それを彼は昭和2年(1927年)以後、失業者の救済にまで発展させた。実は、私も共済組合が失業者の救済にまで発展させ得るものだとは気が付かなかった。

 まず彼は、すべての失業者を登録した。そして、仮に1000人の者が登録したとする。第一日目に神戸市全体の雇主から250人の求人があったとする。その場合には、仕事を得た者が五銭ずつ共済組合に支払う。そして雇主も失業救済の意味において、賃銀のほかに1人当り5銭ずつ多く支払って貰う。それに対して、さらに神戸市役所は登録人員1人当り約5銭ずつ補助を与える。

 第2日も求人250人あったとすれば、登録番号251人目から第500番までが就業する。そして他の750人は全部失業する。しかし、こうして、もし毎日、250人分ずつの仕事があるとすれば、4日日に一度ずつ仕事が得られる訳である。そして、4日の中あとの3日間遊んでいる者は、1日に対して15銭の失業恵与金(Unemployment Benefit)を貰うことが出来た。しかし、実際においては、市役所は色々な失業匡救事業を始めたので、失業の率はそれよりも少なく、従って恵与金も多く与えることが出来た。

 私は、この失業共済保険制度を東京に移して、そして今や日本の六大都市は皆これを実行している。この失業共済保険制度の特徴は、(一ケ月間続いて仕事に従事した者に対しては、何パーセントか払い戻しをして、出来るだけ失業者をドール・システム(Dole System)に陥らないように努力したことにあった。失業が止むを得ないとすれば、こうした共済的保険制度は、労働階級の道徳心を維持し、勤勉なる習慣を持続する上において、大袈裟な失業保険制度より有効であると私は考えている。(キリスト教兄弟愛と経済改造から)