壁の声きく時(随筆集『地殻を破って』から)

 壁の声きく時

 石の叫ぶ日に私は壁の声をきく.私の孤独は凡ての無生物の友人によつて慰められる。私は何一つとしてその声をきかぬものはない。
 ステーシヨンの、ベンチに汽車を待つ時、病気の時、無為で困つて居る時、裁判所で検事の出て来るのを待つて居る時、私は凡て無生物の声をきく。
 天井も、セメントの敷石も、扉も、レールも、礫も、無意味に並んだ棚も、私には凡て歓喜の源であり、悦びの種である。私は五時間でも六時間でも二週間でも五週間でもそれを凝視して居れるのである。
 私を縛らうと云ふ人がある。然し、何と云ふ無策なことであらう。
私の身体は捕へられても、私は自由に無生物の心の裡へ這人つて行つて、仙人の様に凡てのものと一緒に遊ぶ通力を持つて居る。私は壁と物語る。
 壁は私に親切でゐる。監獄の壁でも、紡紙会社の練瓦の高壁でも、紐育の摩天楼の五百尺のセメントの壁でも、また貧民窟の所々落ちかゝた泥土の壁でも、私には慰めであり、希望であり、そして又親切であつた。
 私は嘗てその凡てに向つて反抗したことがない。私は二ケ月間金持の銀皿磨きにカナダ側のナイヤガラで地下室の生活をして居つた時にも、私には壁が親切であった。私は壁の前に坐つて五年でも十年でも辛抱が出来る。実在の不可思議に溶かされて、私はそれが壁であらうが、美人であらうが、また桜の花であらうが、区別がつかない。神の与へてくれる凡ての実在は私に取つては凡て声であり、叫びであり、音楽であり、管絃楽である。
 何と云ふ物凄い管絃楽であらう。壁の中から微かに清らかに冴えた音楽が聞こえてくる。或時には高くマーチの様に、或時にはセレナーデの様に、或時には讃美歌の様に、或時には"Te Deum"が聞こえる。大きな讃美歌だ。無生の生の進行歌だ。私は全くその心に溶け入る。
 そして私は実在の驚異に溶け入るのである。そして私は眠に襲はれたものゝ如くに眼を閉ぢる。然し、また、バツと眼を開いて今の音楽が実在の実在であつたかと壁を見詰めると、今度は壁の上の斑点と、色調と、色々な屈線と、曲線がまた私の眼の前に跳り出してくる。何と云ふ乱雑な踊りでらう。クロン坊も、歌劇の女優も、日本人の車夫も、西洋の紳士も、林檎も、砂糖蜜もみな堕から抜け出して来て私の眼の前で舞踏するのである。
「まアお前達は何ぜそんなに踊るのだ」と声を出して尋ねると、すぐ平面の上に吸ひつけられた様に元の通りに屈線と、曲線と、斑点と、風色の壁に帰つて了ふ。然し、また私が声を出すことなしに、無声の無声で、実在のするが儘に任せて置けば、凡て壁の上に括りつけられた平面の精は、自らを解放して時間と空間との上に踊り出してくる。何と云ふ不可思談な壁であらう、あれあれ、今度はオーケストラのシンフオニーまでがついて居る。そして最高音のヴヰオリンが耳朶を劈ざく程喧びすしく奏でる。私はもう堪え切れない。私は壁の精等に威圧させられて了ふ。あれ、私は失神せねばならぬ。米倉から出て来た小鼠の群のように、壁から抜け出た凡ての精――土の精、セメントの精、有機物の精、表面に画かれた林檎の精――それも水に滲みた形として現れたもの――砂糖蜜、車夫……歌劇の女優、是等のものゝ精が這ひ出て来て、私の為めに踊つてくれるのである。
 そうかと思ふとまた静かに、静かに無声の精が禅学の話をしてくれる。「君は少しも禅学を知らないだらう。知らないのを禅学とも云ひ、知ることをも禅学と云ふのだ! 「また君の様に無為の壁の前に坐って居ることをも禅学と云ひ、立ち上つて労働者の前に獅子吼することをも禅学と云ふのだ。要するに、無声の声のその有声の無声が禅の禅だ、解つたか? 解らんだろう。判ったら判らんので、判らなんだら判つたのだ。要する所は、禅とは実在の驚異と云ふことだ。その実在の驚異が時間の上に転げて行けば善いのだ。つまり生命と云ふことだ。言葉はどうでも善い。生命の上に飛躍して"Elan vital の中に呼吸すればその人が最も真に近いのだ。禅とは真と云ふことだ!」とも教へてくれる。
「有難たう!」と感謝すると無声の声の持主は、静かに壁の中へ引込んで了ふ。
 また或時に、私は壁の前に坐つて居て預言者エゼキエルの引越の音を、壁の向ふから聞く。コトンゴトンとこちらの方へ掘つてくる音がある。そしてそれは幾十年幾百年掘つても、まだこちらの方へ穴を貫いたことがない。預言者の引越の霊は一寸の壁の間に住んで居る。そして、一寸の厚さの壁を鑿つに千年かゝつても、まだあかない。然し、その努力はまだ中止されたことはない。だが死骨が甦る日、石が生命を回復する日、凡ての無生物が人間の蹂躙より解放せられる日に、一寸の壁を鑿つに千年かゝつた壁の人は、その平面の生活から抜け出て。天地の間に飛躍するのである。
 そうだ、壁の声を聞け、壁の声を! その上に投げつけられたマルチン・ルーテルのインキの跡と、ザー・ニコライの血痕が精となつて叫ぶ計りでは無い。智者達磨が残した視線の跡が、また壁の中から復活してくる計りでない。今日では壁自身すら飛躍して居るのだ。壁も解放の日を待つて居る。それで如何なる解放者でもそれに近づいて行けば、壁はその永く待つたその沈黙と、その忍従と、その縛られた過去の日の話を面白く物語つてくれるのである。
 万物は凡て解放の日を待つて居る。凡ての物質も飛び上る日を待つて居る。それで外殻と思索の迷路に囚れないものは、いつでも壁と凡ての無生物との同情を受けることが出来る。
 私は常にこんな心で壁の前に坐る。私が黙祷する時に壁も沈黙する。私が冥想する日に壁も冥想する。平面に立つた壁は私が実在と神に接する妨害には少しもならない。凡ての壁は私には透明である。実在である。生物である、壁は私には良き友人である。特に孤独の日の良き友である。  (一九二〇・四・一五)