2014-12-01から1ヶ月間の記事一覧

颱風は呼吸する30

長い睫 その混乱の中に。アンナは、上海に着いた。駿治は勿論、千鶴子も、河野夫妻も彼女を埠頭に出迎へた。 税関に下りてきたアンナは、赤ん坊のやうな皮膚をして。長い睫(まつげ)のついた眼瞼をぱちくりさせてゐた。数箇月前にくらべて非常に健康さうに…

颱風は呼吸する29

失恋『まあ幸子さん、今頃までどこへ行ってゐたの?』 幸子の姿を見るなり、千鶴子は甲高い声でさういった。彼女が晩の十二時過ぎになっても帰ってこないので、千鶴子は表の床几に腰をかけてひとり淋しく、幸子の帰ってくるのを待ってゐた。 『私? 内外紡績…

颱風は呼吸する25

病床 病床のシーツは白かった。絨毯は紺色に染めてあった。壁は卵色で、ベッドの頭の擬宝珠は金色に光ってゐた。 走り廻ってゐるうちは、アメリカがよいとは少しも思はなかった。なんだかせかせかして気持か悪かった。然し病床に落着いてみると、アメリカと…

颱風は呼吸する24

殉教者 駿治は更生した生活を送るために、月給は今の半分でもよい。法律の咎めをうけない立派な正業に就きたくってたまらなくなった。 然し、あちらこちらに借り倒した借金を払ふために、不正なことをしてでも、金が多く入用であった。然し、朝起きてから晩…

颱風は呼吸する23

闇に輝く それでも、やはり巡査がこはかった。出入口は一つしか無いし、その扉は二重になってゐるし、その出入口から二、三十人の警官が、一度に闖入してくればどうしようか? それが彼の最後だ。官憲から日本の領事に渡され、日本に送還せられるのだ。恥か…

颱風は呼吸する22

どん底への一歩 自分自ら愛想をつかしてゐる斎藤駿治に、一旦約束したからといって、いくら断っても義理だてをしようとする、アメリカ娘の心を知った時、さすがの駿治も、彼女を尊敬せずには居れなくなった。 それで彼は気前よく、暮に買ったフォードの自動…

台風は呼吸する21

拗ねた男『まあ。さう怒るなよ、君。然し、君はまだ若いんだから、今のうちに、うんと勉強しなければ、アメリカごろになってしまって、取返しのっかんことになるぜ』 『いや、俺はもう、ごろつきになってしまってゐるんだ。俺は今、自分でとってゐる方向を少…

台風は呼吸する20

下宿屋の三階 眼に涙の残ってゐる者にとって、コンクリートの道ほど、冷酷に見えるものはなかった。駿治は、その時ほど、物質文明を呪ったことはなかった。 ポスト街の四つ辻に立って、暫くの間、ぼんやりと彼は立ってゐた。やうやく、気が落着いてくると共…

台風は呼吸する19

跪くもの 身体はわくわくしてゐた。駿治の目には世界一の桧の絵などは、映らなかった。動悸が早く搏(う)ち、総身がしびれるやうに感ぜられた。鋭い皮膚感覚が……腕から……脇腹から……腰から絹のやうに柔い。微妙な感じを伝へた。彼は、しつこく彼女に吸ひつく…

颱風は呼吸する18

深い靨 今夜は、クリスマスの前夜だといふのに、アンナは、駿治を乗せて、サンフランシスコを後に、南へ南へ、車を走らせた。彼女は、黒狐の襟巻を、横っちょに、頚から肩へ垂らし、平均三十五哩くらゐの速力を出して、アスファルト道を、真直に、余所見(よ…

颱風は呼吸する17

埠頭 銅鑼が鳴る。見送客は急いで、階段の方に群る。五色のテープが投げられた。十一月十三日の金曜日だといふのに、別に不吉な徴候も見えず。波は静かだし、太陽はまばゆいほど照ってゐた。 見送りなんかしなくともよい、と断ったけれども、会社からも家か…

颱風は呼吸する16

痴愚 来月アメリカへ出発するといふのに。駿治は少しも準備が出来てゐなかった。旅行免状の下附願は。代言人に書いてもらった。然し、憲友会の代議士に頼むと許可が早くくると、支配人の近藤兵蔵が注意してくれたので、姉に無心をいひ、菓子折を一つ持って、…

颱風は呼吸する15

沈黙『えらい、今夜は、平常の唯物論とは逆なことをいうてゐるぢゃないか、君は! ふふふふ』 駿治がさう冷かすと。 『別に唯物諭とは衝突しないかね、確かに性慾は恋愛の墓場だなア。実際、俺はずゐぶん女と関係してきたが、関係がつくと俺はもういつもその…

颱風は呼吸する14

色懺悔 玉ノ井を出た二人は、あまり昂奮してゐたので、乗合自動車に乗るのをよして、隅田川の堤防の上をとぼとぼ歩いた。哲学的な駿治は、太田にいった。 『あれだけ性慾に迷うてゐる群衆を見ると、僕はもう、いやになっちゃったなア。俺は性慾の問題を離れ…

颱風は呼吸する13

白い奴隷『結局、やはり、こんな商売をしてゐると、罰が当るんだなア。子供は、全く、こんな処で育てると、スポイルされてしまふからなア』 出口は、悟ったやうなことをいうた。縁側を、制服制帽の大学生らしい男と、案内に出た娘と同じ柄の着物を着た娘とか…

颱風は呼吸する12

硝子のはひった簾戸『おい、君、金持ってゐるのか?』 カールの女に路地の奥まで連れ込まれた太田は、数開離れて前方 を歩いてゐた駿治に、大声で尋ねた。生憎、彼は財布の底に一円五十銭しか持ってゐなかった。それは、昨夜新宿で飲んだ五円の残りであった…

颱風は呼吸する11

街上の処女 月のない晩であった。そして隅田川はどす黒く、漆で塗り潰したやうに見えてゐた。埃の多い下町では、空の星さへはっきり見えなかった。 『ありゃ、君、問題にならんよ。そりゃ、訴へてもいいがな。弁護士に支払ふ弁護料を損するだけのことで、結…

颱風は呼吸する10

混乱した頭脳 自分の勤めてゐる会社には、多少不利益であったとは思ったけれども、何かの集会が電気倶楽部にある度毎に、必ず、一週間に一回か二回か顔を合せる仲でもあったので、駿治は、顧問弁護士の事務室から出て、すぐ埴生商会の主人に、自働電話をかけ…

颱風は呼吸する9

裏の裏 駿治は、顧問弁浪士に別れを告げようと立上った。然しその瞬間に、姉の夫が拘留されてゐることを思出した。彼は弁護士に尋ねた。『拘留されてゐる者を、早く帰す工夫はありませんでせうかね?』 変圧器の部分品を両手に持ったまま、駿治は弁護士の顔…

颱風は呼吸する8

特許権侵害『仕方がないなア。おい、斎藤君! 君、顧問弁護士の処へ行ってきてくれ、そして、埴生商会をすぐ告訴するやうに、頼んできてくれ』 九州の『水力電気』に送る電気機械の送状を書いてゐた駿治に、支配人の近藤兵蔵が、さう大声にいうた。支配人は…

颱風は呼吸する7

あまりに営業的な 階下から、松代を大声で呼ぶものがあった。 松代は。またチキンカツレツを半分食ひさしにして、階下に下りて行った。そしてこんどはなかなか上ってこなかった。便所に行く振りをして、酔ひの廻った駿治が松代の客を見に下りた。 右側の真中…

颱風は呼吸する6

コクテルの盃『椅子でなくてもおよろしければ、二階にお上りになりませんか?』 さういって、松代は、駿治を抱くやうにして畳敷の二階へ通した。 『コクテルにしませうか、ビールにしませうか?』 松代は、職業的であることを決して忘れない。 『ビールでい…

颱風は呼吸する5

ネオンサインの誘惑 彼が二階に飛上って、表に出ようと、帽子を帽子掛から外してゐると、姉の愛子が音もさせないで、階段をとってきた。 『いひにくいがね。駿治さん、私に、五円お金を貸して呉れませんか? 今日は少しお金を持ってきたんだけれども.X光線…

颱風は呼吸する4

枯葉落つ 愛子姉さんの後から、表にゐた浅子が、内庭を通って座敷に上ってきた。そして、二人で話してゐる言葉を聞くと、一つとしていい話はなかった。 愛子の夫の経営してゐた、川越市の製糸工場の潰れた話、埼玉県越谷で三等郵便局の請負仕事をやってゐる…

颱風は呼吸する3

武蔵野 駿治の部屋は、見晴しのよい、大きな窓のついた二階にあった。秋になると、西の方に、よく富士が見えた。震災後、急激に膨脹した郊外でも、代田橋あたりはまだ武蔵野らしい処が残ってゐた。 駿治の借りてゐる家の西側は、広い畑になってゐて、雑木林…

颱風は呼吸する2

大陸への思慕 それは、どんよりした秋の曇日の午後であった。 斎藤駿治が、関東電機会社の倉庫から出てくると、入替りに、支配人の近藤兵蔵が紺サージの洋服に、手織のネクタイをつけて、店からやってくるのに出会った。 『おい、斎藤君、きまったぞ、奢れよ…

颱風は呼吸する1

颱風は呼吸する 颱風に備へよ ――序に換へて―― 人間も呼吸すれば、颱風も呼吸する。悪血を浄化するために、人間は呼吸し、地上を浄化する為めに、颱風は呼吸する。 おお颱風は呼吸する! 赤道を北に颱風は呼吸する。烈日は低気圧を作り、熱線は北に動く。然し…