2014-12-21から1日間の記事一覧

颱風は呼吸する36

黙せる羔羊 銃丸(たま)は、駿治の頭上を掠(かす)めて飛去った。 『運の強い奴ぢやなア』 河野はさういひながら、銃丸を取りに事務所の中へ走り込んだ。駿治はその隙を狙へば逃げられたが、もう覚悟してゐたので、不動の姿勢でそこに直立してゐた。 自警…

颱風は呼吸する35

スパイ 便衣隊が次から次につかまった。そして片っ端から銃殺された。 『大将大変です、河野があなたを殺すっっていってゐますよ。早く逃げて下さい!』 血相を変へて裏口からはひってきた、河野の女房が叫んだ。斎藤は、別に慌てもしなかった。遠藤は相変ら…

颱風は呼吸する34

日の丸と阿片 松代を、アメリカ人経営の婦人ホームに収容してもらった駿治は、すぐその足で、気になつてゐた、ヴァイオリニストの遠藤光三の長屋を訪問した。そして、彼の居ることは、遠くからでも、よく聞こえるヴァイオリンの音色でわかった。 光三は、支…

颱風は呼吸する33

窮乏 支那人の阿媽(アマ)は、ボイコットして帰って行ってしまった。河野竹次郎の女房は、妊娠の悪阻(つわり)とかで店には顔を出さなかった。大勢の避難者が止宿してゐるのに、千鶴子は風邪ひきで寝ついてしまった。 そのため。駿治は朝早く起きて、炊事…

颱風は呼吸する32

ビーズ模様 月日は、赦容なく経った。 新公園の桜が散ってあやめが咲き、アンナの病室の窓硝子に、六月の梅雨がビーズ模様を飾り、それも間もなく消え失せて炎熱の夏がきた。 然し、アンナは少しも淋しからないで、修道尼のやうに隠棲(いんせい)を愛した。…

颱風は呼吸する31

狂風怒濤『あなたは、この女を娶り、病める時も、苦しめる時も、あなたの妻として愛しますか?』 米山牧師は、厳粛に、斎藤駿治に尋ねた。今、アンナの病室で、二人の結婚式が挙げられてゐるのだ。アンナは、病床に横たはったまま、その左の手を伸ばした。そ…

颱風は呼吸する30

長い睫 その混乱の中に。アンナは、上海に着いた。駿治は勿論、千鶴子も、河野夫妻も彼女を埠頭に出迎へた。 税関に下りてきたアンナは、赤ん坊のやうな皮膚をして。長い睫(まつげ)のついた眼瞼をぱちくりさせてゐた。数箇月前にくらべて非常に健康さうに…

颱風は呼吸する29

失恋『まあ幸子さん、今頃までどこへ行ってゐたの?』 幸子の姿を見るなり、千鶴子は甲高い声でさういった。彼女が晩の十二時過ぎになっても帰ってこないので、千鶴子は表の床几に腰をかけてひとり淋しく、幸子の帰ってくるのを待ってゐた。 『私? 内外紡績…