颱風は呼吸する35

  スパイ

 便衣隊が次から次につかまった。そして片っ端から銃殺された。
『大将大変です、河野があなたを殺すっっていってゐますよ。早く逃げて下さい!』
 血相を変へて裏口からはひってきた、河野の女房が叫んだ。斎藤は、別に慌てもしなかった。遠藤は相変らず、ヴァイオリンを、暢気さうに弾いてゐた。
『どうして。僕がそんなに憎いんだい?』
『ねえ、大将、河野は、たうとう自警団を除名されたんですって。それはね、河野があまり淫売買ひをして自警団の規律を守らないのと、領事館でもやはり阿片の問題がやかましくなって、河野を罰することになったんですって。だって大将、河野はこのどさくさにつけこんで、支那人町へ阿片を売りに出かけて行ってたんださうですの……そんなこと。私でも少しも知りませんでしたがね、今朝河野の友達が家にきてみんな話してくれたんです。なんでも罰金は二百円くらゐださうですが、河野はあなたが領事館へ訴へたからだといって、かんかんになって怒って、ゐるさうですよ』
 さういってゐる処へ河野がやってきた。
『こら! 斎藤、殺してやるから出てこい! 貴様が便衣隊を隠してゐることを、俺は知ってゐるぞ!』
 その言葉に斎藤はびっくりした。まさか河野が、陳栄芳や他の六名を匿まってゐることを、知ってゐるとは思へなかった。河野の言葉が不思議でならなかった。
『貴様は売国奴だ! 貴様のやうな奴を生かしておけば、帝国の前途が危いよ。さあ、出てこい!』
 その殺気だった言葉を聞いて店から光三が、ヴァイオリンを捨ててとんできた。
『河野君、何いってるんぢゃ、君は?この家に、便衣隊などどうしてはひってくると思ふか、君?』
 と、斎藤の襟をつかんでゐた、河野の手をもぎとって、彼は静かにいった。
『いや、俺は知ってるぞ。俺は一咋日からな、どうもこの家が怪しいと思ってゐたんだ。咋夜、この前で日本水兵が一人便衣隊にやられたのは、確かにここの二階から撃ったに違ひない。俺はそれから徹夜してこの二階を瞥戒してゐたんだ。すると、今までに一向見なれない男が、この二階から覗いたんだ。それに考へてみろ。どうして貴様の家の電話だけが、今でもかかるんだい? 貴様か支那側のスパイであるといふ証拠は。あの電話だけで十分ぢゃないか!』
 といふなり、河野は二階へ跳び上って行かうとした。斎藤はそれを引摺り下ろした。
『よし! 貴様は暴力に訴へたな。今に復讐してやるからみてをれ!』
 さういふが早いか河野は表へ飛出した。
『ちょいとあなた! 無茶なことをしちゃいけませんよ!』
 かなきり声で河野の女房が、大きな腹を抱へながら裏口から叫んだ。
『あいつは何をするかわがらんから、ちょっと僕はみてこよう』
 さういって遠藤光三は、すぐ表へ走り出して、河野の後を追っかけた。
 自警団の事務所に飛込んだ河野竹次郎は、真青な顔をして早口でいうた。
『便衣隊が隠れて居るよ。咋夜水兵を隨撃したのは、斎藤商店の二階からに違ひないよ。今、俺が見届けようと思って。二階へ上らうと、すると斎藤の奴、俺の足をもって引摺り下ろしやがるんだ。どうもあの店は怪しいぜ』

  叛逆者

 河野の日頃の性格を知ってゐる、自警団の第十四分隊事務所の人々は、耳を貸さうともしなかった。光三は、玄関口でそれを見てゐて、気の毒に思ふほどであった。
 徹夜の警備が、こたへると見えて、そこにゐた半数の者は、椅子にもたれたまま居睡りをしてゐた。他の者は、口もきかないでストーヴにあたってゐた。
『たしかに居るよ。日本の陣地をさぐりにきたスパイが、あそこに隠れてゐるよ』
 かう叫んだ河野の声に一人の青年が立上った。
『よしツ! 四、五人、一緒にきてくれんか?』
 さういふが早いか、その青年は、四、五丁離れた、斎藤商店の方へ走り出した。
 大変だとみた光三は、一足先に裏道を駆け出した。光三は家に飛込むなり、駿治にいうた。
『みんな隠さなくちやあ。すぐ銃殺されるよ』
 といひながら、二啼に跳び上って行った。然し、陳栄芳は、もう覚悟をしてゐたらしく、落着いた口調でいうた。
『つかまるなら、つかまった時のことにしませう。どうせ街路をうろうろして居れば、スパイだと見られて、銃殺されるんですから』
 さういってゐる時に、裏口からどやどやと五人の者がはひってき
た。
『どこに居るんだ。どこに?』
『二階だ、二階だ!』
 といふ声が聞えた。誰かが鉄砲を一発放った。抵抗する者は撃つぞ、といふ信号であったのだ。
 自警団の者は、あまり大勢の者がゐるのを見て、びっくりしてゐた。河野は大声で叫んだ。
『陳栄芳が居るな、こいつは共産党の親分だぞ。この男は、上海の抗日ボイコットの中心人物だぞ』
 河野が昂奮してゐるのに反して、陳栄芳は存外平気であった。
『そりゃ嘘です。僕は抗日ボイコットの煽動なんかしません』
『嘘つけ! 貴様は、スパイの親分だらう』
 河野は続けていった。
『ぢゃあ、貴様は、今頃こんな処で何してるんだ?』
 傍に立ってゐた駿治は、その時初めて言葉をさし挾んだ。
蒋介石の軍隊が、左翼の文士達を銃殺し始めたものですから、私の家に逃げてこられたんです。決して、スパイぢゃありません。どうかゆるしてやって下さい』
『いや。怪しいぞ。こいつ等は便衣隊の一味かも知れないぞ。だまされるなよ』
 自警団の一人が、戸口の外から大声で叫んだ。
『やっつけちまへ、やっつけちまへ!』
 もう一人の青年が、戸口の敷居の上に立って怒鳴った。
『みな縛っちまヘー 兎に角、みんなこい!』
 分隊長はさう叫んだ。そこにゐた七名の者は全部縛り上げられた。そして河野も駿治を縛り上げようとした。
 その時、駿治は苦笑しながら河野にいった。
『なに? 君が、僕を縛るのか? よし縛ってくれ。君はまるでユダのやうな男だなア』
 八人の者は静かに階段を下りた。隣の部屋からアンナが声高く。
『シュンジ!・ シュンジ!』
 と呼んでゐた。よほど駿治は、彼の捕繩の端を持ってゐる河野に頼
んで、アンナの顔を一目見たいと思ったが、それも男らしくないと考へたので、目頭に涙をためながら。静かに階段を下りて行った。

  断末魔

『どうも怪しいなア……』
 自警団第十四分隊のストーブの前の、椅子に腰を下ろしながら、分隊長は陳栄芳の顔を見てさういった。
『すると君は、日本の軍隊が、街路に鉄条網を張ってから、租界内にはひったんだな。よくはひれたなア……その目的はなんだったんだ?』
 散切(ざんぎり)頭に細腰の分隊長は、酒に焼けた顔を陳の方に向けて目を瞠った。陳は別にわるびれもせず、至極冷静を保って明確に答へた。
『私は、斎藤さんの家に働いていた遠藤幸子といふ娘さんを、よく知ってゐたものですから。その兄さんに頼らうと思って、租界内にはひってきたんです』
『うまいこといふない!』
 河野は得意になって、声を荒だてて陳の頬を一つ殴りつけた。
『こんな奴は、容赦なく、銃殺したらいいぢゃないか!』
 一人の青年が分隊長にさういった。
 また大砲の弾が、すぐ前の街路の上に、落ちて、作裂した。
『やあ、あぶないぞ!』
『どうも敵の照準が、少しうまくいきすぎるなア。こりゃきっと、こちらに信号してゐる者があるにちがひないぞ』
 と、色の黒い四十恰好の男がいった。その時、河野はすかさず、その男の言葉を受次いだ。
『だってこんな男が、租界内に潜入してきてゐるんだもの。大砲の弾がよくあたるのは、当り前だよ……然し、かういふ者を匿まふ斎藤が怪しからぬよ……分隊長、私がいったのはほんとでせう? 私だって、まるっきり信用の出来ない男ぢゃないでせう。私が阿片を支那街へ売りに行ったのも、敵情を視察しに行ったんですよ。それを誤解されたんです。僕は初めから斎藤の電話が怪しいと思ってゐた。果してさうだったんですからなア。分隊長! こいっはほんとに憎い奴ですから、私に銃殺させて下さい』
 分隊長は、苦笑しながら、小声に答へた。
『さう急(せ)くなよ。まづ自警団の本部に報告して、取調べてもらはうぢゃないか』
 大砲の弾が、どすんどすん、租界の中に落ちてきた。硝子戸が振動した。近所の屋根が打抜かれ。器物が破壊される音が響き亙った。
『今はそんな時ぢゃないですよ。容赦なく撃ち殺しもやった方が早いですよ』
 河野はロを尖らかせた。
『いや、そんな無茶なことをしちゃあいかん。まづ団長に報告して、よく取調べて貰った方がいいだらう』
 気の早い河野は斎藤だけを表に引張り出して、すぐその場で銃殺しようとした。
『こら、斎藤! 貴様のやうな売国奴を生かしておくことは出来ん。俺が貴様を、国家に代って処刑してやるからさう思ヘ!』
 斎藤はその時、大声でからからっと笑った。
『なに! 生意気な!』
 いふなり、河野は、十歩ばかり後退りして、駿治を一発のもとに、銃殺しようとした。駿治は、なほも笑ひ続けた。
『俺は売国奴ぢゃないよ。狭量な愛国心だけでは、日本を救ふことは出来ないよ。俺は、大亜細亜のために、支那と日本がもう少し、仲好くしなければならぬと思ってゐるんだよ』
 といった瞬間に復讐の一心に、燃え狂った河野は、どすんと一発放した。