颱風は呼吸する36

   黙せる羔羊

 銃丸(たま)は、駿治の頭上を掠(かす)めて飛去った。
『運の強い奴ぢやなア』
 河野はさういひながら、銃丸を取りに事務所の中へ走り込んだ。駿治はその隙を狙へば逃げられたが、もう覚悟してゐたので、不動の姿勢でそこに直立してゐた。
 自警団の分隊長は、河野のやり方を見かねて、銃丸を取りにはひった彼の襟をつかまへて怒鳴った。
『無茶をするな、河野! 貴様は、松代を斎藤に隠されたと思って、復讐してゐるんだな!』
 といふなり、河野をそこへ突き倒した。
分隊長! 私は、そんな男と違ぶんですよ!』
 その時、アンナが、河野の女房に背負はれて、裏道から走り出てきた。そして駿治が、往来の真ん中に立ってゐるのを見て、英語で尋ねた。
『シュンジ、あなたはそこで、何してるの?』
 その時、駿治は涙も出さずに冷静にいった。
『今、銃殺される処だ』
『え?』
 河野の女房はたまげた声を出した。
『逃げたらいいぢゃないですか。大将』
 彼女は続けてさういった。
 分隊長は再び出てきた。そしてすぐ、斎藤と他の七名の支那人を、自警団の本部へ連れて行った。
 本部は捕へられてきた便衣隊で、非常に混雑してゐた。絶え間なく砲弾が附近に落下した。人々はいやが上にも昂奮して、冷静を失はずにはゐられなかった。
『そんな者を連れてきたって、仕方がないぢゃないか! 許す者は許し、不正なものはどしどし処分してくれよ。そちらの方で、……」‘
 それを聞いた駿治は、落着いていった。
『お願ひです! 私は銃殺されてもいいが、どうか陳栄芳君だけは助けてやって下さい。実際この人達は、何も悪いことをしてゐないんです。ただ官軍に殺されることを恐れて、日本祖界に逃げてきただけのことなんです』
 時々裏庭で鉄砲の音がした。便衣隊のものが銃殺されてゐるのであった。
 河野の女房が、アンナを背負うたまま、自警団の本部にはひってきた。光三も飛込んできた。そして、分隊長にいうた。
『斎藤さんをどうか許して下さい。陳栄芳君を匿まったのは、或ひは悪かったかも知れませんが、二階から水兵を狙撃したなんてことは、決してないんです。それはみな誤解です』
『ぢゃあ、未だに電話がかかるのはどうしたんだ? 何か支那側と一脈相通ずる処があるに相違ない。あの電話一つにかぎって、いつまでも聞こえるっていふのが、をかしいぢゃないか!』
 分隊長はさういった。表を装甲自動車が通る。機関銃隊が行く。ぐづぐづしてゐるうちに、時間は三十分、一時間と経って行った。
 泣き膨(はら)した顔を隠さうともせず、河野の女房に背負はれて、自警団木部の入口で待ちつくしたアンナは、たうとう、外套を地べたに敷いてその上に坐り込んだ。
 光三はアンナを、あまり可哀さうだと思ったので、昼の二時過ぎ彼女を背負うて、北四川路の斎藤商店へ帰ってきた。斎藤駿治と、七名の支那人は、その晩のうちにどこかに廻されたといふことであったが、その翌日も、またその翌々日も、何等の消息はなかった。
 アンナは、毎日毎日、河野の女房に背負はれて、自警団の本部まで夫の安否を聞きに通った。その後、誰も、斎藤がどうなったかを、知る者はなかった。
 それから三年余りは過ぎた。南京の中山路で、自動車の中に並んでゐる、斎藤駿治とアンナとの幸福さうな姿を見かけたと、どこからともなく聞こえてきた。(終)