黎明を呼び醒ませ1

   序

 師走のどす黒い夕雲が、日本の空に懸る。これは、自分の煙突から吐き出した煤煙だ。大阪には年八百万貫の煤煙が降る。日本は今その煤煙に中毒してゐるのだ。
 師走のどす黒い陰鬱が日本の魂を被うてゐる。真夜中に起きた時、私はこの憂鬱を思うて涙することが屡々だ。娼妓五万二千、芸妓八万、女給九万、そして、闇に咲く醜業婦は猶この外に五万を数へる。三年前から、大阪、神戸の街頭には、男娼まで進出して来た。
 師走のどす黒い憂愁が、日本の戸口を覗いてゐる。純潔は失はれ、騒擾は繰り返され、強盗と殺人は激増し、刑務所は増築を急ぐ。おお、東方の君主国! その名のために私は日本の不義を自ら恥ぢる。
 闇は深まり、暴風は加はる。ああ、これは物的の昏迷ではなくて、霊の痴乱だ。桜が咲いても、菖蒲が開いても、私の憂鬱は少しも晴れはしない。盗賊の忍び入る如く、不義は、愛国心の名を藉りて民族の霊魂の殿堂を脅す。民衆はその仮装を看破して、黎明の近づくのを待ってゐる。
 黎明は何時だ。日本の暗黒に代る黎明は何時だ。黒土は嘆き、禿山は泣いてゐるのに、狼はまだ闇を楽しんでゐる。
 明星を呼び起し、太陽に覚醒を与へよ。鶏よ、早く鳴け。燕は何時北に帰り、春は何処まで来てゐるのだ。結氷よ! 結氷よ! 日本の霊魂の結氷よ! お前は氷の下の鯉を窒息させるつもりか?
 鴬よ、加勢してくれ。雲雀も春を督促しろ。あまりにも長い日本の結氷を、あらゆる方法で恥ぢるがいい。
 三原山は忙しく自殺者を呑み干し、阿片商人は専売制度の蔭に隠れ、酒精は免許制度の城壁に立籠り、発狂者は十万人を数へ、出獄人は百万を越えるに至った。犬吠岬は悲しみ、伊良子岬は憂ひ、富士山もまた首を傾けてゐる。彼等には秋津洲の現状に異変の前兆が見えるのだ。
 嘗ては、聖徳太子を生み、光明の基礎を仁義に即せしむべきを自覚し、それを憲法にまで認めた日本民族は、密雲に太陽を見上げることさへ無くなった。
 弘法は、千百年の昔、『十住』の心論に絶対無障の哲理を指示して、日本の哲学に新しき紀元を開いたが、法界声無くして、絶対の境地は、弊履の如く捨てられてしまった。
 親鸞の末裔は、愚禿の昔を忘れ、日蓮の亜流は清澄山の体験より離れ、徳愛は蒸発して、日本は蒙古の沙漠と相連るに至った。
 太古、日本海は沙漠であった。近代に至って、その沙漠がまた日本の霊魂に復活した。旱魅に私の眼の涙まで蒸発した。おお、沙漠の暗闇に黎明を告ぐる乙女星スピカの昇る日は何時か。私は凍えつつ、沙漠の端に黎明を待ってゐる。鶯よ、雲雀よ、早く新春を督促しろ。沙漠の端の闇の中に、独り立ってゐる私を憐れんでくれ。
                   (昭和一一・一二・六)