黎明2

   黎明を呼び醒ませ

 黎明を呼び醒ませ、魂よ。太陽の周囲を一定の軌道に乗って廻っ
て来るだけが、新年といふのではない。黎明を呼び醒ませ、魂よ。
昨日の藻抜けの殼の生活より、今日新しき第一歩を踏み出せ。水は
ぬるみ、梢の若芽はふくらむとも、おまへの心の結氷は、内側から
溶かすより方法はない。おまへに、千万金の富を積み与へても、お
まへはそれで幸福であることは出来ないだらう。心の幸福は、富や
権力や奇蹟で満たされはしない。
 私は知ってゐる。魂の結氷を破る唯一つの工夫は、おまへの魂の
内側に、愛の温泉の湧くことだ。否。それにもまして愛の太陽がお
まへの胸底に昇る日があれば、その時、おまへの涙の寒流の上にぶ
くぶく浮いてゐる憎悪の氷山が溶けるだらう。
 対馬暖流が日本海を温めるやうに、おまへの魂にも暖流がさす必
要がある。おまへは知ってゐるだらう。茶碗の水が凍っても、あの
寒い樺太西海岸の泊居は零下四十度の寒天に決して結氷することは
ない。おまへの魂が結氷してゐるとすれば、それはおまへが茶碗の
生活を送ってゐるからだと気附かねばなるまい。魂よ、魂よ、おま
への茶碗生活を破棄してしまへ。今も、四国の田舎では、棺桶が母
屋から出る時、家人が逝きし人の茶碗を門先にぶち砕く如く、霊魂
の門出には。小さい茶碗が邪魔になるのだ。おまへがあまり悲しさ
うにしてゐるのも、さてはまた、おまへが余りくよくよしてゐるの
も、それはおまへが茶碗の生活に恋々としてゐるからではないか。
 おまへは、まだ飲食に捉はれてゐるのか? おまへはまだ、パン
が霊魂を形作ると考へてゐるのか? いつまでおまへは唯物史観
迷ひ、唯物弁証法に悩まされてゐるのだ? おまへは、茶碗が水を
作り、肉体が霊魂を生むと思ってゐるのか? おまへは、入れ物と
その内容をいつまで混同するのだ。
 新しい世紀の曙に、物質の世界が宇宙の霊力の表象であることを
物理学者が指示してゐるではないか。
 見よ、ハイゼンベルクは、光量子の世界をおまへに教へ、物質が
光の塊であることを、おまへに告げてゐるではないか。さうだ、お
まへは光そのものなのだ。忘れてはいけない。光によっておまへは
造られたのだ。おまへは光なのだ。けれど記憶せねばならない。直
線に運動するエネルギーの量子は光として現れ、屈折する量子は、
曲りくねって光を物質として現れるのだ。それをアインシュタイン
が教へる。人間の肉体は、その曲りくねった光の塊なのだ。忘れて
はならない。我々は光源体そのものであるのだ。ただ、その光を真
直ぐに人の方に向けないで、自分の方に折り曲げてゐるために、我
々は太陽の光芒を失ってゐるのだ。これは資本主義的生活に於いて
もさうなのだ。そこで私は、その折れ曲った小さい円周の生活を破
棄してしまへと主張するのだ。私は再びいふ、おまへの茶碗の生活
を粉微塵に破壊してしまへと。くよくよするな、茶碗よ、おまへ自
らが光となるためには、その茶碗を勇敢に破砕する必要がある。
 信ぜよ、臆すな! おまへは光を内側に持ってゐる筈だ。ただそ
れを、おまへは茶碗に伏せてゐる。おまへは、あまりにも表面的な
ことに捉はれ、屈折の世界に気をとられてゐる。
 物質の彼岸に、法則の智慧が動き、時空の蔭に、目的実現の叡智
が覗き込んでゐることを、おまへは忘れてはならない。空間に捉は
れるな、小さき戦ける霊よ。幅の世界は、絶対ではない。それは運
動の速力に従って収縮することを、フリッゲラルドとローレンツ
証明し、ミリカンか実験してゐるではないか。魂よ、空間が絶対で
ないことを忘れるな。そのことを忘れる日に、おまへは茶碗の水に
溺れるのだ。