颱風は呼吸する32

  ビーズ模様

 月日は、赦容なく経った。
 新公園の桜が散ってあやめが咲き、アンナの病室の窓硝子に、六月の梅雨がビーズ模様を飾り、それも間もなく消え失せて炎熱の夏がきた。
 然し、アンナは少しも淋しからないで、修道尼のやうに隠棲(いんせい)を愛した。病床に横たはる日が長くなると共に、友人も日に日に殖えていった。そしてアンナの病室は国際的になった。
 そこへはアメリカ人は勿論のこと、イギリス人もくれば、支那人もくる。そしてたまには朝鮮人までが見舞ひにきた。それはアンナがいつもにこにこして、朝早くから晩おそくまで、寝てゐながら手を動かして編物を仕上げ、それを、みんなに贈物としたためでもあった。
 そして有難いことには、さうした事情を知ったアメリカの母は、彼女の結婚を正式に許してきたのみならず。小遣にせよと、お金を百ドルまで送ってきた。
 アンナの静かな感化は、斎藤駿治の商売にまで影響した。今までアメリカ人などには殆ど売れなかったものが、長江筋のアメリカ人の関係してゐるミッション・スクールの発電所から、または四川省アメリカ人の経営してゐる工場から、思ひもよらぬ註文がくるやうになった。その、またアメリカ人の言葉を信じて、フランス人が電球を註文してきた。
『愛といふものはえらいものだなア』
 遠藤光三は註文の手紙を開く度毎に、駿治とアンナの不思議な愛が、妙な処にまで影響のあることを見て感心した。
 さういふ遠藤光三も。非常に変った純情の人であった。彼の婚約者であった菅井花子が死んでから、彼女の命日には彼は必ず断食をして、水ばかり飲んでゐた。その日になると。彼の部屋には恋人の写真が飾られ、硝子のコップに花を挿して、その写真に捧げられてあった。
 また、光三の左の薬指には、菅井花子の死んだ日から、ゴム・テープが巻きつけられてゐた。お昼休みの時間でも、光三はベートーヴェンショパンの、葬送曲を多く奏した。
 音楽に多少心得のあるアンナは、その、またベートーヴェンの葬送曲が大好きで、毎日のやうにそれを繰返して聞かせてもらった。
 それを見た千鶴子は笑ひながら。アンナの部屋にはひってきていった。
『もう少し陽気になりませうよ。ねえ、遠藤さん、シューベルトのフモレスクでも弾いてあげて頂戴よ』
 さういってゐる処へ、
『号外! 号外!』
とけたたましく、腰につけた鈴を嗚らしながら、日本字新聞の号外が配達された。駿治は、その号外を拾ひ上げて読み、すぐ、アンナの部屋に上ってきた。
『遠藤君、大変なことが起ったよ。満洲は大騒動だ。日本軍がたうとう、奉天を占領したらしいね……もう、支那では商売が出来なくなるぜ。こりゃ!』
 果して、揚子江沿岸には、猛烈に抗日ボイコットが起った。そして斎藤の店もその余波を免れることは出来なかった。然しさうした窮乏の中にも、アメリカ人とフランス人がひき続き註文してくれたので、辛うじて店を開けることか出来た。

  荒地に咲く花

 日本海軍の陸戦隊が上陸した。在留日本人の自衛団が組繊せられた。北四川路を、毎日砲車が新公園の方へ引かれて行った。装甲自動車が通った。着剣した水兵が、五人、十人と、隊を組んで巡羅し始めた。
 斎藤商店の前には、戦争気分が十二分に漂うた。その混乱の真最中に、田代万吉が突然やってきた。
『えらいことになったなア、君』
 田代は、相変らず、ソフト・カラーに派手なネクタイをくっつけて、白髪まじりの髪を撫で上げながら、重っ苦しい口調でさういった。
 田代の言葉によると、彼が満洲から北京に出て、漢口に着いた時、事件が勃発し、イギリスの船に乗せてもらって、やっと、揚子江を下ってきたといふことであった。
『どうなるかちょっと見当がつかんなア。君、僕の考へでは支那と仲好くした方がいいやうに思ふけれどなア。人にはそれぞれ意見がちって違った見方もするから、わしらのやうな東洋の事情に暗い者にはわからぬけれども、兎に角えらいことになったなア』
 そんな話から田代万吉は、共産党が、長江一帯に大勢力を得たこと、そして支那はつひに共産化する運命にあることを、斎藤に力説した。
『○○人が多数支那の共産軍の中にはひって、指揮してゐるさうだ
なア。この間、大冶鉄山にやってきた共産軍の中には、日本の女が参謀としてついてきたさうだ。なんでも、その女はもと上海でダンサーをしてゐたとか、いってゐたよ。とても美人だってね。なかなか日本の女も勇気があるね』
 田代は千鶴子の汲んできた紅茶をすすりながら、そんな噂話をした。それを聞いた駿治は。すぐ、それは遠藤幸子のことに違ひないと思った。然し、彼は彼女との関係を田代に話しすることが面倒くさかったので、黙って話を聞き続けた。
『……長沙で暴れてゐる共産党の首領は○○人だってね。とても農民の信望を集めてゐるさうな……さうさう、その男のことを君が知ってゐるかも知れぬといって、漢口の日清汽船の支店長が、いってゐたよ。先方では君をよく知つてゐるさうな』
 田代が、あまり突飛なことをいひ出すので、斎藤はびっくりした。
『なに? 共産党の首領が僕を知ってる?』
 田代はポケットから手帳を出して、あちらこちらとペーヂを繰った。
『君は太田友蔵といふ男を知らんか? もと蔵前の高工にゐた男ださうな』
『そら、知ってゐますよ。その男は、私と一緒に関東電機に勤めてゐたことかあったんです。その男がどうしたんです?』
『それが君、今、長沙の共産軍の首領をしてゐるんださうな』
 その言葉を闘いて駿治はたまげてしまった。
『へえ! 太田が、支那の共賊軍の首領になってゐますかなア。世の中は変れば変るものですなア、あいつは淫蕩な男で、そんな元気は無いと思ってゐましたがなア。然し、共産党は女を何人持ってもいいんだから、そりゃその男には持ってこいだらう、あははは』
 そんな話をしてゐる処へ、支那服を着た立派な紳士がやってきた。それは。誰であらう? 今、噂してゐた太田友蔵その人であった。
『噂をすれば影とやら、今、君の噂をしてゐた処だったんだよ!』
と、駿治は、まづ太田の方へ手を伸ばして、彼に握手を求めた。

  木枯

 太田が上海にやってきた最大の目的は、武器を日本から密輸入したいといふためであった。彼はその密輸入を、斎藤にやってくれないかと依頼にきたのであった。
『金はいくらでも出すから。君、少し尽力してくれ給へよ。こんなどさくさの最中に儲けなければ、いつ儲けるんぢゃ、君』
 さういったけれども、斎藤は頭を左右に振って、『うム』といはなかった。
 太田は、思ひ出したやうにいった。
『実はね、君、白状するがね、かういふ智慧は、もと君の店に働いてゐたといふ女から授かってきたんだよ。さうさう、僕は、その女からのことづけを君に話すことを忘れてゐた。えらう、その女は君に謝罪してゐたよ』
 さういふと、彼は内懐から外国銀行の小切手を取出した。
『君。斎藤君、この金はね、遠藤幸子女史から、預ってきたんだよ。なんでも、この正月とかに。君に、迷惑をかけたことがあったさうだなア。その弁償にこれをあげてくれといふことだったよ。今でも、君、遠藤女史はとても君を慕ってゐるよ。実はね、或る人がね、あの人に結婚を申込んだんだよ。すると即座にはねつけられて赤恥をかきよったんだよ』
 駿治が、その外国小切手を受取って見ると、米貨で五百ドルと書いてあった。
 電話がかかった。それは、南昌に送った五千円ばかりの電動機を、共産軍に掠奪せられたといふことを、女子青年会の外人が知らせてきたのであった。
 その電話にがっかりした駿治は、席に帰って太田にいった。
『困ったことが出来たよ、君どうかしてくれんか。南昌に送ったうちの電動機を、共産軍が持って行ってしまったさうな』
『そりゃ、どうもならんよ。君。それが、みな共産軍の兵糧になるんだからなア』
 表を、重々しい装甲自動車が、恐ろしい物音を立てて走って行った。それを顧みて太田友蔵は笑ひながらいった。
『おい、斎藤君、ああいふ奴を二、三台、どこかで手に入れてくれんか。君。さうすりゃ、長江一帯をすぐ席巻してみせるがなア。あはははは』
 そこへまた、表から、紺サージの洋服を着た陳栄芳が、人力車でかけつけてきた。
 彼ははひってくるなり、すぐ斎藤に向って大声でいった。
『遠藤幸子さんのお兄さんは居られませんか?』
 黙々と帳簿の整理をしてゐた遠藤光三が、すぐ机の蔭から出てきた。
『陳さん、今日は。なにか、御用ですか?』
 陳は、黙って一通の支那文で書いた電報を光三に示しながら、声を落していった。
『これは間違ひないと思ひますがね、これがほんとだとすると、お気の毒なことです。あなたのお妹さんは、官軍につかまってすぐ銃殺されたといふことを、私に知らしてきたんです』
 光三の顔は忽ち曇った。彼はさもたまらなささうに。二つの眼瞼(まぐた)を伏せて、陳に顔を見られないやうに俯向いてしまった。
 それを聞いて、第一にびっくりしたのは太田友蔵であった。
 『えツ? 僕は、一週間前に武昌で会ったんだがなア。さうですかね。どこでやられたんだらう?………いや、我々は、まるで、草の葉の露のやうなものだ。俺の命も、いつどこでどうなることかなア』
 さういふなり太田友蔵は、挨拶もしないで店を出て行ってしまった。表にはものすごく木枯が、猛りに猛って荒れ狂ってゐた。

  混乱

 妹が銃殺されたと聞いた遠藤光三は、恰もその日が、彼の恋人の命日にあたってゐたので、朝から断食をして何も食ってゐなかったが、瓢然と帽子も被らないで家を出て行ってしまった。
 河野竹次郎が帰ってきて、支那人街の抗日気分を詳かに駿治に報告した。
『こりゃ、困ったことになりましたなア。もう、店を畳んで内地に引揚げた方が、一番よいかも知れませんぜ』
 その店の前を。相変らず白装束の日蓮宗行者の一団が、物狂はしく団扇太鼓をたたき、吼え立てるやうにお題目を唱へながら、大通を新公園の方へ歩いて行った。
『城内では、あの人達をとても怖れてゐますなア。支那人は、白頭巾に、白衣姿の行者は呪ひをする魔術使ひとして、非常にこはがってゐるんですからなア。こんな時には、ねり歩くことを止した方がいいんですがね。領事館にいって止めさしたらどうでせう』
 また装甲自動車が、すさまじい音を立てて通過する。
 台所から、鼻をくすくすいはせながら出てきた千鶴子は、装甲自動車に目をとめて河野竹次郎にいうた。
『いよいよ。上海でも戦争が始まるのかいな。もう、電話も今日は半分以上通じなくなったのね。支那の交換手が意地悪してゐるらしいわね』
 それに対して。河野は、
『早川さんこの辺はまだいい方ですよ。日本人倶楽部のあたりは、もう殆ど一度だってかからんさうです。支那の交換手が怒っちゃって、つながんらしいですなア。日本からきた汽船も、荷揚げか出来ないので、そのまま帰ってゐますよ』
 そんな話をしてゐる処へ、カーキ色の運動服を着た自警団員が、銃を持って店にはひってきた。
支那人が、日本租界を焼打ちしようといふ噂がありますから、みな警戒して下さい。自警団員が足りませんから、今夜から、男子は全部、交替で夜警に出て下さい。ここには男子の方が何名ゐますか?』
 彼は銃をテーブルにもたせかけて、手帳に店で働いてゐる男子の名前を記した。
『夜警の事務所には、その日その日の当番の名が出ますから、一々いってこなくても、必ず当番に当った者は、出て下さいよ』
 さういって。自警団の男は帰って行ってしまった。
 また号外が出た。それは北満に於ける、戦況を報じたものであった。一旦、表に出てゐた田代万吉が帰ってきた。
『こりゃ、益々形勢が悪いぞ、早く日本に帰らんと。汽船が無くなるかも知れんから、僕はもう失敬するよ』
 さういって、彼はすぐ帰って行った。
 長江筋から引揚げてきた人々が、次から次に訪問してくる。漢口で斎藤商店の品物を扱ってゐた、鈴本といふ店の一家族も引揚げてきた。そして旅館が満員だといふので、日本に帰るまで寝させてくれ、と申込んだ。
 すると一時間も経たないうちに、長沙(チャンシャ)の雑貨商が、これまた一家眷属七人を連れて、斎藤の所に頼ってきた。自分も嘗て泊る所がなくて困ったことのある放治は、千鶴子の部屋をあけて貰って、その二家族を一先づそこに入れた。