颱風は呼吸する31

  狂風怒濤

『あなたは、この女を娶り、病める時も、苦しめる時も、あなたの妻として愛しますか?』
 米山牧師は、厳粛に、斎藤駿治に尋ねた。今、アンナの病室で、二人の結婚式が挙げられてゐるのだ。アンナは、病床に横たはったまま、その左の手を伸ばした。そして駿治は、その右の手を伸ばして、堅い握手を牧師の祝福のもとに交した。
 そこに立会った者は。千鶴子と、遠藤光三と、河野竹次郎夫妻、並びに上海のキリスト教女子青年会アメリカ婦人三名であった。幸子は、この二、三日店にさへ顔を見せないで。行方を晦ましてゐた。
 式が済んでみんなが解散した後、駿治は日本領事館へ結婚届を持って行った。すると書記生の一人が、妙な顔をして彼の顔を覗き込んだ。
『あなたは、斎藤電機商会の御主人でしたね? お家に遠藤幸子といふ女が居りましたか?』
 突飛な質問に駿治は面くらった。
『ええ、現在居りますよ』
『この二、三日、お店に出てきますか?』
『いや、出てきませんがね』
『その女はもとダンサーでしたでせう?』
『ええ、さうです』
『あの女は三日前から、支那の官憲に共産党員としてつかまってゐるんですがね、あなたの方でお引取りになりますか? お引取りになるんでしたら。領事館の方でも尽力しますがね。放っておくとすぐ銃殺されてしまひます。あなたがあの女を他所へ出さない。といふ約束をなさるのなら、私がこれからあなたについて行って、もらってきてあげませう』
 駿治は書記生の好意を感謝した。届けもそこそこにすまして、すぐ領事館の自動車に宗せてもらって、上海で一番賑かな、四馬路の讐察署へ飛んで行った。
 大きな、背の高い巡査は、上司の命令通りすぐ遠藤幸子を、署長の前に引出した。署長は書記生に尋ねた。
『この女ですか?』
 斎藤駿治は明確に答へた。
『この女に違ひありません』
『再び共産党の間に加はって煽動すると、この次は銃殺しますからね。この女に、もう、民国の共産党員に交らないやうに、よくいひ聞かせて下さい』
 斎藤駿治は、英語ではっきり答へた。
『必ず、さうさせます。どうかこの度は、これで赦してやって下さい。きっとこれから注意させますから』
 その答へを聞いて、大きな椅子に凭りかかってゐた署長は、指で幸子を連れて行ってもよい、と合図をした。然し、幸子は領事館の書記生を目の前に置いて。存外平気で日本語でこんなことをいひ放った。
『今に、あのわからずやの署長を銃殺してやるから……』
 その声はいかにも怒気を含んでゐた。そして、再び領事館へ帰って行く途中でも、彼女は何度自動車の扉を開いて、飛下りようとしたか知れなかった。
 彼女には、夏前のやうなおどけなさが全く失はれてゐた。瞳は据わり脣の隅は下に垂れ、すべての人に食ってかかった。駿治が、
『少し店に引籠って、おとなしくしてくれない?』
 といふと、彼女は俯向いたまま答へた。
『私は殺されても、あなたの家なんかに帰りませんよ。あなたはブルジョアの番犬ぢゃありませんか!』
 さういって彼女は、断髪にした髪の毛を耳の後へ撫でっけた。

  兄と妹

『幸子さん。あなたは、もう少し気を落着かせることは出来ないの? あなたは、近頃男のやうになってしまったのね。言葉遣ひは荒くなるわ、断髪はするわ……そんなにしたければ、もう一つついでに男の洋服を着てはどう?』
 電話で事情を知った千鶴子は、領事館まで駆けつけ、すぐたしなめるやうにさういった。
『ええ、男装もしますよ、必要があれば、私は、その日のために、生れてきたんだから。見(みえ)も人の非難もみんな蹂躙するんです』
 さうはいったものの、彼女はやはり千鶴子の親切にほだされて一先づ、北四川路の斎藤の店まで帰ることになった。
 然し、幸子は店に着くと直ちに、流暢な支那語で陳栄芳に電話をかけた。すると、すぐ陳栄芳初め、五、六人の者が斎藤の家へ押しかけてきた。
 幸子は。駿治のいつも寝てゐる、二階の一番広い部屋を占領して、そこでシガレットを煉らせながら。何かひそひそと計画をめぐらしてゐるらしかった。
 それを千鶴子は二階から下りてきて。事務をとってゐた斎藤にいった。
『あんなに変るもんですかね。あのやさし娘が、まるで夜叉のやうに威張りちらしてるぢゃないの』
 さういうて、彼女は幸子が威張ってゐる真似をして見せた。
『まあ、それでもうちに居てくれるなら。銃殺されないで済むか
ら。出歩かれるよりずっと安心だわ』
 と千鶴子がいってゐる処へ、領事館の高等刑事がはひってきた。
支那共産党の連中が、大勢集まってきたやうですなア。陣栄芳もきましたか?』
 その刑事の質問に対して、千鶴子は要領を得ない返事をした。
『陳さんってどんな人です?』
『あの医者ですよ。あの男は、日本にも留学して居たことのある。なかなか秀才ですがね。上海のプロレタリア芸術家の仲間では、まづ第一人者でせうね……然し、遠藤幸子もあまり無茶をやりよると、領事館から退去命令が出て、上海にはもう居れなくなるがなア』
 刑事が、そんなことをいってゐる処へ、結婚式が済んでからフランス租界の家庭まで個人教授に行ってゐた、人の好い音楽家の遠藤光三が帰ってきた。
『遠藤さん、さあちゃんは仕方がないのよ。あなたは少しも知らないでせうが、今の先まで四馬路の支那の警察に検東されてゐたんですよ』
 光三は、黙って、千鶴子のいふことを聞いてゐた。
『…………』
 千鶴子は、なほも言葉を続けた。
『この方は、領事館の高等刑事の方ですがね、さあちゃんが転向しなければ、領事館の方で退去命令を出すかも知れないと、いっていらっしやるんですよ』
 さういったけれども、彼は何も答へなかった。また相も変らず同じ机に向いて。こつこつと簿記帳を繰り始めた。
 そこへ、遠藤光三に宛てて、一通の電報が配達せられた。それによって、彼と長く婚約してゐた、神奈川県の高等女学校に奉職してゐた女教員、菅井花子が永眠したといふことがわかった。
『あなたに許婚者があったんですか。この人は、ヴァイオリンばかり弾いてゐて、何も人にいはないもんだから。ちっとも事情がわからないわ……改めておくやみいひませうね、ほんとにお気の毒でしたわね』
 千鶴子がおくやみをいふと、光三は、静かにハンカチで眼を拭きながら。表に出て行ってしまった。

  静かなる影

 そんなことでごたごたしてゐるうちに、その年は過ぎてしまった。駿治は儲けた金を、殆ど全部。アンナの入院料に支払ってしまひ、その年は辛うじて早川千鶴子の出資金に対して、六朱の利子が払へた。
 然し今日まで相当に苦しんできた駿治は、まだ千鶴子に対して利息が払へただけ、うれしかった。
 一月五日の朝七百二十円の小切手を。彼が笑ひながら千鶴子に手波すと、彼女はそれをぽいと彼の机の上に投出していった。
『要りませんよ、こんなお金なんか。私は、利息をもらはうと思って、店に出資してゐるのと違ひますよ。ただ、皆仲好くして、その日その日の糧に困らなければいいぢゃないですか』
 彼女はどうしても、その金を受取らうとはしなかった。
 それを台所で聞いてゐた幸子は、つかっかと店に出てきてその小切手をつかんだ。
『お姉さん、そんなに要らなきや。私、貰っときますわ』
 さういって、外套も着ないで表に飛出してしまった。それを兄の光三が追駆けたけれども、つかまへることは出来なかった。
『仕方がないね、はんたうに、さあちゃんには困ってしまふわね』
 千鶴子がさういふと、
共産党の資金に要るんでせうよ。よほど、あの子は、共産党に深入りしてゐますからね』
 と、斎藤は半泣きになっていった。
 その日、光三は平身低頭して二人に謝罪した。
『どうか私の月給から、毎月三十円なり四十円なり、引きさって下さって、弁償させて頂きませう』
 然し、斎藤も失恋した時の狂的態度を、自らも経験したことがあるので、幸子には充分同情出来た。
『いや、君が悪いんぢゃないんだから、そんなにしなくてもいいですよ』
 その翌日駿治は、アンナを日本人病院から退院させて、みんなと同居させることにした。それは、金が無くなったのも一つの理由だったが、親切な千鶴子が自ら看護するといひ出したためでもあった。
 店の二階に帰ってきたアンナは、いつも輝いた顔をしてゐた。半身不随であったけれども両手を動かすことか出来たので、彼女は寝たまま駿治のために、スエターを編んだり靴下を編んで、少しも休むといふことをしなかった。
 そして、千鶴子は。また姉妹も及ばぬやうな親切さを示して、アンナの屎尿の世話から入浴の世話までした。アンナはそれを非常に喜んで、
『あなたは天の使ね』
と、千鶴子に顔を合はせるたびに繰返した。
 駿治も、どこから千鶴子のやうに親切な無私の愛が生れてくるのかと、不思議に思ふほどであった。
 新年になっても、商況は非常に悪かった。けれども家の中にはいつも春風が吹いて、これ以上の幸福はない、と感謝されるほどであった。
『あなたは、やはりいい人と結婚したのね。アンナさんのやうな立派な婦人も、ちよっとないわ。あれだけ不自由してゐても腹一つ立てないんだから、全くアンナさんは聖人よ。私はアンナさんに接近するごとに清められるやうな気がするわ。えらい人は寝てゐても人を感化する力があるものね』
 千鶴子は、さういってアンナの優しい心を讃芙した。