颱風は呼吸する33

   窮乏

 支那人の阿媽(アマ)は、ボイコットして帰って行ってしまった。河野竹次郎の女房は、妊娠の悪阻(つわり)とかで店には顔を出さなかった。大勢の避難者が止宿してゐるのに、千鶴子は風邪ひきで寝ついてしまった。
 そのため。駿治は朝早く起きて、炊事から店の掃除まで、自分でやらなければならなくなった。こんな時に、人のよい遠藤光三が居れば、大いに手助けになるのだがと思った。然し、光三は幸子が銃殺されたと聞いてから、殆ど、発狂者のやうになって平和運動を始めてゐた。そして、もと幸子が借りてゐた、苦力長屋の一軒かがあいてゐたので、そこへはひり、もう斎藤の店とは縁を切ってしまった。
 さうしたことのために駿治は、寝てゐるアンナの食事のことから、屎尿の心配までも、自分ひとりでしなければならなくなった。
 また、運悪く千鶴子は風邪で寝ついた日から、三日目に両眼が見えなくなったといひ出した。
 日本人病院の医者に診てもらったが、梅毒性の白内障(そこひ)だと診断した。駿治は驚いて千鶴子をすぐ入院させた。医者は駿治にいった。
『多分、早川さんの。なくなられた夫の方が梅毒を持っていらしって、早川さんに感染さしたんだと僕は思ひますよ』
 千鶴子は、それを肯定した。
『しかし、それは六年ほど前ですからね、私はもう治りきったもの
と思ってゐたんですの。さうですかね、そんなに梅毒は恐ろしいものですかね。五年も、六年も潜伏してゐて、突然、両眼を犯すものですかね』
 千鶴子は、明るい輪郭をした顔を曇らせて、ハンカチで鼻の上の膏を拭いた。
 尿の検査をしてみると、彼女の腎臓もよほど悪かった。さうしたことから医者は、千鶴子に絶対安静をすすめた。
 満洲の戦況は、いやが上にも支那の抗日感情を高めた。そして長江筋の商売は全く止まってしまった。で。今まで買ってくれてゐたアメリカ人やフランス人までが、斎藤商店に註文してくれなくなった。そして送った品物に対する代金が、一万円近くもとれなくなった。
 千鶴子の入院科は要る。人手がない上に、自警団に河野竹次郎は徴発される。銀行の使ひまで駿治自身が行かねばならなかった。そして預金帳の残額も、もうあと僅かに百円足らずになってゐた。
(幸子の送ってきた金などは、関東電機に送金してとっくの昔になくなってゐた)
 幸ひ、泊ってゐる避難客も、どっと一塊になって日本へ帰ってしまったので、少しは落着いたが、駿治はその月に払ふべき家賃と千鶴子の入院料を、どうして支払はうかと肝胆を砕いた。
 日本に電報を打った。越谷の兄から少しでも送金してもらはうと待った。然し、その返事は、かへって駿治を悲観せしめた。
『イヘハサンシタ カネオクレヌ』
 どうして破産したか知れないか、越谷の本家がいよいよ没落したかと思ふと、悲しくなった。悲観して二階のアンナの部屋にはひると彼女は、いつもの通りにこにこして、どこに戦争があるかといふやうな、顔附をしてゐた。
 いつもの通り寝たままで、忙しく編針を動かし、女子青年会のアメリカ婦人のためにスエターを編んでゐるのだといって、彼女は一瞬だって手を休めなかった。

  病床の天使

『千鶴子さんの入院料が払へないんだがどうしよう?』
 いひたくはなかったがあんまり苦しかったので、寝てゐるアンナに打明話をした。するとアンナは存外平気な顔をして、
『お祈りしませうよ。神様は正しい者の祈を、必ずきいて下さるから……』
 さういって、彼女は病床に横たはった継、瞑目して合掌した。それが、十一月の三十日の朝であった。
 病院から、千鶴子の入院料百七十円五十銭の附けを持って会計係が、朝早くやってきた。然しそんな大金があらうはずかない。それで体よく猶余してもらった。昼過ぎに家賃を取りにきた。それも、払ひを五日まで延ばしてもらった。
 音楽家の遠藤光三は、昼過ぎにひょっくりはひってきて、パンを買ふ金を貸してくれと十円ねだった。それで、無い財布の中から五円を彼に渡した。窮乏してくると、西洋人と結婚したことの悲しさを、沁々と考へた。
 彼は帳場の机を前にして。どこか顧客先の中で、金を融通してくれる所があるかと探し始めた。然し帳簿を幾百遍ひっくり返しても、そのやうな相談ができる処は一軒もなかった。貸金は二万円近くにもなってゐた。しかし、それらは皆交通が杜絶して、何箇月後か、何箇年後かでなければ、とれる見込はつかなかった。
 悒鬱になってしまってさすがの駿治も、生を疑ひ始めた。その時、また突然に彼はサクラメントの大通で、自動車の下から逼ひ出したことを思ひ出した。
『……さうだ、さうだ俺はあの時、死んでゐるはずだったのだ。俺があの時命を拾ったのは、神が俺に何かの使命を残して、おいて下さったからだ。よし! 窮乏がなんだ! 俺の使命は、日本と支那、日本と米国とを親善に導く、三角形の頂点におかれてゐるのだ。よし! 俺は、言然起って自己の使命に生きよう! 今まで、自分のことだけ思うて、あまりにも汲々としてゐたから、こんなにまで窮乏したのだ。これから俺は丸裸になって、太平洋民族の親和のために努力しよう。よし、俺の店はもう用事がないのだから、俺は日本の避難民と支那の避難民とを区別しないで、どちらも一生懸命に助けることにしよう』
 そんなことを考へ込んでゐた時に、アンナと親しくしてゐる、ミス・クックといふ女子青年会の幹事がはひってきた。
『お困りでせうね、ずゐぶん。上海では当分御商法はいけませんでせうね』
 さういひながら二階に上った。そして、アンナが作ったスエーターの紙包を持ってすぐ下りてきた。
 夕方アンナの食物を運んでゆくと。アンナは百ドルの小切手を彼に手渡した。
『ミス・クックがね、お困りでせうからこれをお使ひなさい、ってくれたのよ。千鶴子さんの入院料に払ってあげて下さいな』
 それを握った駿治は、すぐ日本人病院に飛んで行った。そして一文も残らず支払ってしまった。
 会計をすまして千鶴子の病室にゆくと、看護婦は、彼女が尿毒症の傾向を持ってゐることを彼に告げた。それでも彼女は元気だけは確かであった。
『なあに、私はきっと治りますから、そしてこんどはうんと働きますよ』
 と、見えない眼を駿治の方に向けてさういった。

  霜

 共同祖界は日が暮れると、もう通行するものなどは一人も無かった。どの家も早く戸を閉して。大きな声さへたてる者がなくなった。
 然し、そんな無気味なうちにも。ひとり淫売婦だけは、街路で大声を立てたり、流行歌を唄って、弾丸を少しも恐れてゐないやうだった。
 そして。北四川路の斎藤の店先が、また特別に淫売婦の群の佇む場所になった。それは、彼の店の横丁に曖味屋か出来てゐたためであった。
 十二月にはひってからのことだ。河野の細君が、或る朝髪を振り
乱して、泣きながら斎藤の店に駈けこんできた。
『ねえ、大将。うちの人を叱って下さいましよ。今朝もね、あの人は私を踏んだり蹴ったりして、出て行けっていふんですもの』
 さういひながら彼女は、ストーヴの前で椅子にもたれて泣き崩れた。
『どうしたの?』
 駿治が、河野の細君の肩を叩いて。元気をつけてやると、彼女はまた泣き濡れた顔を。ハンカチで拭いて甲走った声でいった。
『あなた御存じですか?……ほら、この前にいつも立っている、別殯の淫売があるでせうが、なんでももとダンサーをしてゐたとかいふ、ハイカラな女ですよ』
『それがどうした?』
『その女にですよ、うちの人が惚れましてね。近頃は何をするにもうはの空で手がつかず、自警団の方もすっぽかしにして、朝から晩まで、その女に入り浸って酒ばかり飲んでるんですの。見るに見かねて私が少しいったんですよ。すると離縁してやるから出て行けっていふんですの』
 彼女は、またハンカチを目に持っていった。
 そんなことがあって。間もなくであった。駿治が千鶴子を見舞って、日本人病院から出てくる時、突然派手な東(あずま)コートを着た日本婦人に出会った。
 駿治が、碌々彼女の顔も見ないで、行き過ぎようとすると、先方から軽く挨拶をした。それで、初めて彼女に注意すると、実に不思議だ! 三年前、東京新宿のカフェ鈴蘭で、よく酒の相手になってくれた女給の松代であった。
『やあ! 誰かと思ったら君か!』
 駿治が、昔に返ったやうな気持で無造作にいふと、松代はいかにもしをらしく慇懃な挨拶をした。
「いつも御無沙汰いたして居ります、お変りもございませんで、……この頃は非常に御発展だと承って居ります……』
 さうした挨拶をする処を見ると、彼女には少しの毒気さへなかった。然し、容色はめっきり衰へて、三年前の美はしさは無かった。額に、頬に、所々吹出物が出来、顔はうんと痩せて髪には艶がなかった。
『御病気ですか?』
『ええ』
 さういった彼女の声は嗄(しやが)れてゐた。
『いつ上海にこられたんですか?』
『私、満洲事変の起るちょっと前に、ダンサーに雇はれてまゐったんですの。けれど、その後ずつと下が悪いもんですからね、こちらの病院に毎日通って居るんでございますの』
 彼女の様子にも言葉にも、いかにも元気がなかった。

  「時」の審判

 いつになく、松代が馬鹿にはにかんでゐるので、珍しいことだと思った。
 三年前に新宿のカフェ街で、女王のやうにふるまって、全盛を極
めてゐた彼女が、梅毒性の吹出物を出してゐるのを見て。駿治は、運命の厳粛な批判を考へざるを得なかった。
『どこに住んでゐるんです、今?』
『北四川路の。お宅のごく近くに居るんでございますよ』
『さうですか! そりゃどこです?』
『あまり御近所で。お店とは目と鼻のやうな処ですの。お宅の横の路地をはひって三軒目の。西洋館の一室を借りて居りますの』
 さういはれて駿治は。そこが新しく出来た曖昧屋であることを、思ひ出した。
(さては。河野竹次郎の追廻してゐる女は、この松代のことであったのか)
 と、駿治はわかった。それで彼は、すぐさぐりを入れた。
『ぢゃあ、うちの河野君は、よくあなたの処へ行きますか?』
ときくと、松代は苦笑して顔を背(そむ)けてしまった。
 それで、駿治はすかさず突込んだ。
『あそこは、ちゃぶ屋にでもなってゐるんですか?』
『ええ。ちゃぶ屋なんです』
 松代は、はっきりした口調で、答へた。
『あなた、また、どうしてちゃぶ屋などにゐるんです!』
『それには深い事情もありましてね。こんな処ではお話も出来ませんが、もしお聞き下さるんでしたら、あなたのお力をお借りしたいこともありますから、是非、お伺ひさせて戴きますわ。結婚してやらうといふ人があった時に、私も嫁いて居ればよかったものをと、今夏思ひますわ。けれどその時は、あんまり浮気だったもんですからね。もう、取返しのつかないやうになってしまひましたの』
 それから先、松代は顔を背けて話をしようとはしなかった。そしてまた患者が四、五人病院の入口を出入りしたので、駿治も精しいことが聞けなかった。
 その目昼過ぎであった。斎藤が店で、手紙を書いてゐると、松代がひとりはひってきた。
『お邪魔してもいいでせうか?』
 といった彼女は、いかにもやさしい人妻のやうに見えた。
『いいですとも、いいですとも。まあ、こちらにいらっしやい』
 昔、彼を冷遇した彼女の失敬な態度を忘れて、駿治は彼女をもてなした。
『ほんとに東京では失礼いたしましたわ。私もあの当時はまだ苦労が足りませんでしたし、世間知らずでしたから、ずゐぶんあなたに失礼なことを申したと思って、今更後悔してゐるんですの……実は今日お伺ひしましたのは、ほかでもございませんがね。お店に働いていらっしやる、河野竹次郎さんのことに就てですわ。ちよっと御相談にのって戴きたいと思ひましてね……あの方には、奥様も、子供さんも、お有りになるんですってね。それだのに、あの方は私と夫婦にならうといって、うるさく附き纏はれましてね。私ほんとに弱ってゐるんですの。私は、ああいふ方と結婚する意志は毛頭ありませんしね。私のやうに全身の腐ってしまったものは、結婚する資格がないと思ってゐますのよ。それでね、私、もう、日本へ帰らうと思ふんですが。少し貯めてゐたお金も、河野さんが貸してくれといはれたのでみんなお貸ししましてね、私は病院へ行く金さへ無くて困ってゐるんですの』

  不思議な電話

 松代の事情を聞いて。駿治は全く彼女に同情した。然し、彼には彼女を助けて日本へ帰すだけの金がなかった。そして、彼女も日本へ帰るなら、病気を治してからにしたいといった。
 彼女は、どこか無料病院に入れてくれと、駿治にせがんだ。それで駿泊は、アンナから聞いてゐた、アメリカ婦人達が経営してゐる、フランス租界内にある婦人ホームに聞いてみようと電話をかけた。
 不思議に電話がかかった。
『あら。お宅の電話はかかりますのね』
 松代は不思議がってゐた。
『この辺の電話は、みんな不通なんですよ、妙ですね』
 その言葉を聞いて駿治もびっくりした。
 そこへ、河野竹次郎が入ってきた。彼は自警団の団服に、分隊長のマークをつけて。ピストルを斜に肩から腰に吊してゐた。片手には何か大きな風呂敷包を持ってゐた。
 河野は松代がゐることに気がついて怪訝さうに、松代と斎藤との二人を交る交る見つめてゐた。そして、駿治が英語で。外国人と電話にかかってゐるのを聞いて、不思議さうに電話の方も見てゐた。
 電話がすんで駿治は、ストーヴの処へ帰ってきたが、河野がそこにゐたので遠慮して、婦人ホームの問題を持出さなかった。
 三人の間には、いやないやな、沈黙が続いた。
 そこへまた河野の女房が、黒のスエターを洋服の上からひっかけて飛込んできた。彼女は、唇を噛みしめて怨めしさうな眼つきで、松代と河野との二人を睨みつけてゐた。そして河野にいった。
『あなた、お昼御飯は?』
『…………』
 河野は、怫然と色をなし、それに対して返事さへしなかった。彼は突然大きな声で駿治にいった。
『大将、長らく御厄介になりましたが、僕ちょっと考へたいことがありますので、日本へ帰ってこようと思ふんですがね。それでお店をやめさせて貰ひたいのです。自分の荷物は、かうして持って帰ります……まことに申しかねますが。日本行きの旅費と、少し余分にお金を貸して戴きたいのですが、どんなものでせうかね』
 駿治は、ストーブの火をみつめながら頭を傾けた。
『すると、君は、自分ひとりで日本に帰るつもりなんかね。細君と子供さんは。どうする考へなんだ?』
 駿治は急所を圧(おさ)へた。松代はすっかり面を伏せてしをれかへってしまった。
『女房って、あなたは、誰のことをいってらっしやるんです?』
『この人のことをいってゐるんだよ』
 駿治は、河野と反対側に立ってゐた。河野の玄房を指さした。
 その言葉を聞いて河野は、頬の筋肉を慄はせながら、野犬が吠えるやうにいった。
『あいつは、もう、私の女房ぢゃありませんよ。昨夜離縁状を渡し
ちゃったんです。あいつは私の目を盗んで、他の若い男と姦通してゐるやうな悪い女ですから……』
 そこまでいふと河野の女房は、雷が落ちるやうな声で怒鳴った。
『嘘をおつしやい! いつ私が姦通しましたか? その若い男といふのは誰です? ……ああくやしい! あなたこそこの女の所へ、毎日入りびたりに流連(いつづけ)ばかりして、妻子にはこの九月から、小遣を一銭さへ渡してくれないぢやありませんか!』
 松代は、二人の喧嘩が始まったので。たまらなくなって、そっと戸を開けて出て行ってしまった。
 また、例の日蓮宗の行者が、けたたましく、太鼓を叩いてお題目を唱へながら、大通を四馬路の方へねり歩いて行った。