グラスゴーでの歓喜あふれる出会い

 財団法人国際平和協会の機関誌『国際平和』2004年冬夏号から転載

                スペーストピア社長 若松 立行

「友だちの牧師で賀川豊彦にえらく傾倒しているひとがいるんだ。スコットランドの人でね。一度会ってみませんか」

 昨年夏、スコットランドグラスゴー大学の欧日社会科学リサーチセンター研究員をしている戸田有信氏と話していて、賀川豊彦のつくった国際平和協会という財団の活動について話していた時のことである。

 日本でも賀川の名前さえ忘れかけようとしているのに、まさかスコットランドで賀川が話題になるとは思わなかった。賀川豊彦は日本でより海外での方が知名度が高いというようなことを聞いていたが、イギリスで身近で賀川イズムに傾倒している人と出会おうとは。驚きを超えて人間社会のつながりの縁を感じた。

 アームストロング氏は一九三三年生まれの七一歳。温厚な面持ちに加え、芯の強さを感じさせる信念の人のように思えた。グラスゴー大学を卒業後、新聞社に勤めたが牧師になりたいという意志でスコットランド・バプテスト神学校に入り直し、牧師になったという経歴の持ち主である。

 二〇〇三年六月、その日はスコットランドでは珍しく爽やかな快晴で、丘の上にあるグラスゴー市内を一望できる邸宅に明るくて、エレガントな、ガーデニングの好きな奥様、ジョーンと二人で悠悠自適の生活を送っているアームストロング氏を戸田さん夫婦と三人で訪ねた。

 アームストロング氏が賀川に接したのは一一歳の時である。病気でベッドに横たわっていた時に、『KAGAWA』というウイリアム・アキシリング(William Axling)が著した伝記を読んでからだ。

「神戸の新川葺合の貧民窟に住み込み、神の子として小さきものに奉仕する姿には感動せざるを得ない」
「当時、神の教えを説くのが聖職者の道と教え込まれていたが、賀川は貧しい人々と生活をともにし、どうしたら貧しさから彼らを救うことができるのかを日々考えた」
「貧しさの根源を求め、さらにそれを取り除くためすべてを投げ打った」

 アームストロング氏は賀川豊彦を語り出すと止まらない。極東の小さな国で生まれた一人の伝道者の生き様に出合い、魂を揺さぶられたというのだ。

 賀川が世界的に有名になったのは日本でベストセラーとなった『死線を越えて』が多くの国で翻訳出版されてからだ。『死線を越えて』の出版は一九二一年。続編となる『太陽を射るもの』『壁の声きく時』と合わせて四〇〇万部を売った。海外での出版部数は含まれていない。生まれたばかりの出版社だった改造社は、賀川のおかげで大きく飛躍した。

 当時の日本小説の翻訳は皆無で、わずかに岡倉天心の『茶の本』や『東洋の理想』や新渡戸稲造の『武士道』などが知られる程度だったから、賀川豊彦の翻訳小説はまさに日本を売り出す数少ない書籍だったはずだ。

 戦後でいえば昭和三〇年代後半に、坂本九の「上を向いて歩こう」のレコードが「スキヤキ・ソング」としてアメリカで突然売れ出し、ビルボード誌のリクエストトップに躍り上がったような感じだろうか。

 アキシリングによる賀川の伝記の初版本が出版されたのは一九三二年である。賀川はまだ四四歳である。そんな年齢の人物が伝記に書かれることすら稀有なことである。しかも外国人の手によって書かれたのだからなおさら驚かされる。それほどまでに賀川豊彦という人物が世界の人々をひきつけたということであろう
か。

 アキシリング氏は『KAGAWA』で賀川豊彦を世界に紹介するにあたって「まえがき」で次のように述べている。

賀川豊彦の人生は、今なお進展の一途を辿りつつある。彼の前途にはより豊かな、そしてより円熟せる人生が洋々として横たわっている、従って、彼の伝記にペンを執ることは、早きに失すると云わなければならない」
「彼の全人生の物語を記録するという興味深い仕事は、やがては専門の研究家の手を通して永く後世に伝えられることであろう」
「この熱烈なる精神の持主――神秘なる東洋の申し子とも云うべき彼のメッセージは、その偉大なる魂と転変する現実の奥底から湧き起り、灼熱せる焔となって、冷淡と皮肉と閑暇とに満ちている世界に真正面から挑戦した」
「即ち彼こそは、二十世紀の舞台上に於いて預言者の声をもって語る神の如き人間であり、その英雄的なる生活の中に、あらゆる時代をとおして救済と創造の力を発揮した幾多の原理を実際に体現した偉大なる人物である」
「彼の中には相反する二つの人間性が存在している。その一つは、友人達の熱烈なる信仰によって神化され、理想化された賀川であり、他の一つは、輝かしい理想の為に全力を挙げて闘う一個の血の通う人間としての賀川である」
「『光は東方より』という東洋のことわざがあるが、社会的な連帯責任に対して明確なる意識をもつ西洋が渇仰している光は、すでに東洋に於いては燃え上がっている。もしこの書物が証明となって、光を西方に運ぶ役割を演ずるならば、著者の幸いはこれに過ぎない」。
 
 アキシリング氏は、一八七三年、アメリカ中西部のネブラスカ州オハマ市に生まれ、二八歳の時、宣教師として日本にわたり、終生、日本での伝道と社会福祉事業に尽くした。その日本で出合ったのが、キリストの弟子として貧民救済にあたっていた賀川豊彦だった。太平洋戦争時は、浦和の収容所に入れられ、日本の官憲から言語に絶する取り扱いを受けたにもかかわらず、戦後も日本を離れず、日本の底辺の人々のために尽くした。そんな人物である。

 日本が満州事変を起こして、国際連盟から脱退したその同じ時期に、日本の聖人の物語が世界の主要言語のほとんどで翻訳され、地球規模の共感と感動を得ていたのだ。今となっては不思議な感傷を抱かざるを得ない。

『KAGAWA』が日本語で翻訳されたのは戦後になってからである。一九四九年三月、志村武氏によって翻訳された。アキシリング氏は日本語版「軛を負いて――アメリカ人の見た賀川豊彦苦闘史」(白堊社)の序文の中で次のように語っている。

 この賀川豊彦の伝記はフランス、ドイツ、オランダ、スカンヂナヴィア、トルコ、メキシコ、インド及び支那からの切なる要望に下に、ドイツ語、フランス語、オランダ語、スカンヂナヴィア語、トルコ語スペイン語、インドの方言、中国語(縮小版)の九カ国の言語に翻訳、出版された。

 その他、英国に於いて英国国民とその植民地の人々の為に出版されたブリティッシュ版のものもあり、これも広く江湖の読者の支持を得ている。

 賀川が今日、世界的な人物であるということは、衆目に一致する所である、彼は全世界の視聴を一身に集めている。

 彼こそは、洋に東西を問わず、一市民としては最も著名な日本人であるということが出来よう。そうして彼については、国内よりも海外に於いて一層著名であるということが縷々云われている。若しもそれが真実であるならば、彼を日本国民にあらためて紹介し、彼が今日まで日本人全体の福祉厚生の為に、幾多の風雲を忍び、あらゆる艱難辛苦に耐え、苦悩と犠牲の一途を辿り、遂にイエス・キリストの旗を天空高く掲げるに至った。その逞しい信仰の一生について述べることは、決して無意味な試みでないことを確信する。

 アームストロング氏は今でも、賀川豊彦を語る時、若さを取り戻す。最近、賀川を語り継ぐことが自らの使命だと考えるようになり、新聞にコラムを書き、賀川と縁のある人々とのネットワークづくりに乗り出した。イギリスには賀川の講演を聴いたという人々がまだ多く生きているのだそうだ。

 六月五日には、グラスゴー大学で「Kagawa Revisited (賀川再訪)」と題しシンポジウムを開催する。アームストロング氏は一九四九―一九五〇年に賀川豊彦が、イギリス各地で行った講演やその講演を聞いた英国人の話、当時の新聞報道な等について講演するため、四〇人以上の人から精力的に取材をしている。また、賀川豊彦について考えることに今日的意義についても話すそうだ。

 アームストロング氏宅を辞する時、国際平和協会に期待することを問うた。

「賀川は、信仰を持っていただけでなく、社会のあり方について、キリスト者の立場から、批判をした。賀川を見習い、現在の資本主義、グローバリゼーションのあり方について、キリスト教信者の立場から、批判、活動を続けていただきたい」と言われた。

 国際平和協会の者として賀川豊彦を誇りに思い、 戸田有信氏と奥様に感謝し、歓喜あふれる出会いをかみ締めてアームストロング邸を後にした。