ロチェスター戦争(1)

 賀川は1936年4月14日、ニューヨーク州ロチェスターに戻ってきた。ここでは故ラウシェンブッシュ教授の記念講座で講義をすることになっていた。
 ところが、賀川の救霊運動、協同組合運動、平和運動に対して、アメリカの軍需品製造業者、在郷軍人団、愛国的婦人団体などが保守派牧師(ファンダメンタリスト)と連絡をとって、賀川反対運動を始めた。
 彼等は、賀川が「日本人は断じて侵略を好む国民でなく、平和を愛する国民であり、協同組合を組織して隣保共助を行うのだ」と言ったことと、キリストの福音を真っ向からふりかざして、アメリカの痛いとこに触れることなどに反感をもって「賀川の平和主義はアメリカの軍備を虚弱にし、賀川の協同組合主義はアメリカの経済機構を破壊する」と反対した。
 そして新聞を利用し、パンフレット、リーフレットを発行し、種々の流言までつくり、講演の日には、テキサス州フランク・ノリス牧師をつれてきて演説会を開催しようとした。
 反対派は、賀川の講演会場である公会堂を、背後から手をまわして、貸すことはできないといわせた。新聞はこのいきさつを報じ、、社説の中で賀川の思想傾向を論じて「自由思想をゆるしてきたロチェスターは、賀川の説をまず聞き、その後で、彼に反対すべきである」と書いた。市当局はもちろん賀川のために公会堂を開放した。
 フランク・ノリスは、賀川が8回講演すると聞いて、自分も8回賀川の攻撃演説をすると発表した。とうとう新聞は「ロチェスター戦争」という初号活字の見出しを使った。
 いよいよ当日になった。賀川は万雷の拍手に迎えられて壇上にたち、
「私は、キリストを神事、唯一のよりどころとして、神の愛を産業、経済、日常生活に実践応用してきた。それを指して、ある人々は、賀川は共産主義者であると言ったと私はきいた。なんとこっけいではないか」と言った、講堂は哄笑した。
 一方では時を同じくして、ノリスの反対演説がはじまった。ところが、あまりでたらめな攻撃をするので聴衆は怒り出し、
「賀川は無抵抗主義者であり、かつキリストの愛を実生活に行っている、しかるに君はキリストの愛を実行していないではないか、キリストの愛を説かず、忌むべき攻撃をしているではないか」
ときめつけた。ノリスは「警官をよんで質問者を捕捉する」と怒号する始末であった。
 新聞の社説や投書は、ノリスを反駁する記事でみたされ、ある投書には、
「誰がノリスに会場を貸したか。市民の公安を害したものは彼であった」
と書いていた。
 それでも傲岸なノリスは屈服しなかった。最後の晩に彼は「賀川を送還するために、諸君はワシントン政府に電報をうて」と叫び、さらに「これから私は、シカゴに行って賀川反対の団体をつくり、あくまでも戦う」と叫んだ。(続く=横山春一『賀川豊彦伝』から転載)