ロチェスター戦争(2)

 こんなにファンダメンタリストの人々が、賀川を攻撃したのは、今にはじまったことではない、前年の12月22日に、テキサス州アマリロでは、賀川が「進化」をいう言葉を使ったこと取り上げて、彼を無神論者だとラジオで攻撃した。これに類した攻撃はアメリカ南部の到るところでうけた。
これらの人々は、第一に賀川が日本人であることに偏見をもち、第二に社会運動には絶対反対であり、第三に資本主義を神の与えた最上の制度だと信じている。第四に世界平和はキリストの再来まで望みがないと考え、第五に倫理運動よりも教条的信仰運動が神に嘉納せられると信じているのであった。
 賀川への反対は南部諸州に止まらなかった。フィラデルフィアの「日曜学校時報」が1935年の秋と1936年の2月の2回にわたって、賀川を攻撃してから、全アメリカのファンダメンタリストたが、賀川攻撃を開始した。
 フランク・ノリスは、反対運動に乗じて賀川につきまとって歩き、賀川をアメリカから日本へ送還する運動をつづけた。
 ノリスは、ロチェスターの失敗にもこりすに、シカゴやセントルイスでも賀川の反対演説をして歩いた。
 4月19日の朝、ボストンにつくと、新聞は「小さきけれども大物の賀川がきた」と大見出しをかかげて歓迎した。賀川はまずプリマス岩礁を訪ね、ピューリタンの精神を偲んで、じばらく祈った。またロングフェローの家やソローの小屋跡やエマーソンの遺跡にも足を運んだ。
 その当時の「クリスチャン・センチュリー」誌によってボストンの様子をうかがおう。
 ボストン・アリーナ(拳闘場)は、たちまち満員となって入りきれず、耳だけでも入れて貰いたいという熱心家が戸口に押しよせ、入場者は1万2000人を突破した。
 この日のドクター・カガワの講演は、アメリカ上陸以来、執拗な反対をつづけてきた保守派の連中に、真っ向から一撃を酬いた。
ファンダメンタリストは、私を教義や信条を無視する異端者のように見ているが、それは違う。私は諸君が信じている教義も信条もみな信ずる。ただ違うのは、一歩進んで実際運動に乗り出していることである。キリストの教えを社会に活かすために、奉仕をつづけている。世界平和の問題でもそうである。抽象的な言葉には、我々はもうあきはてている。私はもっと根本的な、もっと実際的な、社会経済機構の改造を考えて、それによるほんとの平和な世界を、早く地上に実現させたいと努力している。これが私の宗教であり、祈りである」
 この明快な、条理整然とした、しかも流暢な英語による演説に人々は魅了されて、ただ唸っていたが、そのうちに感激の爆発の如き喝采が起こり、やがてあふれる感謝へと移って行った。
 この日、2500ドルの献金があった。500ドルを会場費に差し引き、残りの2000ドルは大阪市内にセツルメントをもう一つ建てるようにと特別指定のもとに送金されることとなった。(続く=横山春一『賀川豊彦伝』から転載)