イエスの友会、月刊誌『雲の柱』の誕生

 大正8年12月23日、の夜、神戸の海運俱楽部で賀川の友人たちは、賀川夫妻を主賓にして「伝道満10年記念会」を催した。賀川は謝辞をのべてから、
「大正9、10年は労働運動に専心するが、11年以降は、本来の職務として与えられた精神運動にかえる考えである」
と述べた。この精神運動にかえる日が早くもまわってきた。
 大正10年10月、奈良の旅館菊水楼で日本基督教教会の教職者会が開かれた。その機会を利用して、10月5日のよく晴れた水曜日の午後、十数名のものが菊水楼の一室に集まった。
 その主な人々は、賀川のほか、中山昌樹、吉田源一郎、村田四郎、松尾造酒蔵、飯島誠太、高崎能樹、小野村林蔵、賀川はる子などであった。熱心な祈りのうちに、新しい宗教運動のために、一つの団体を結成することになった。その名前は投票によって吉田源治郎の「イエスの友会」が採用された。出典は、ヨハネ第15章の「わが誠命(いましめ)は是なり、わが汝等を愛せしごとくに互いに相愛せよ。人その友のために己の生命を棄つる、之より大いなる愛はなし、汝等もし我が命ずる事をおこなわば、我が友なり」である。
 会の精神は、フランシスカン第3教団の精神を取り入れ、伝道的にはゼスイィトの方法をとることとした。
 イエスの友会の綱領は5箇条で、次のように定められた。
 1.イエスにありて敬虔なること
 2.貧しき者の友となりて労働を愛すること
 3.世界平和のために努力すること
 4.純潔なる生活を貴ぶこと
 5.社会奉仕を旨とすること
 この綱領を遵奉する者は誰でも入会できる。会には、会長もなければ、委員もない。しかも具体的な主張の、どんな事業を行うかも示されなかった。それにも拘わらず、日本のキリスト教徒の中から、響きの声に応ずるごとく、忽ち数百名の同志が集まった。この初期の会員の中から、注目すべき名を拾って見よう。
 郷司慥爾、植村龍世、清水廉、岩間松太郎、木俣敏、北村徳太郎、遊佐敏彦、間所兼次、杉山健一郎、武田公平、大久保忠臣、石川四郎、酒井清七、松村信幸、草野心平、多田徳一、木立義道、帯刀貞代、馬淵康彦、吉本健子、芝八重、吉岡金市、菊池千歳
 共益社(賀川が大阪に設立した生協)が、文化運動の一つとして、夏服1着1円50銭、コール天の冬服1着7円50銭の「賀川服」を売り出したのもこの年である。
 賀川は、大正10年9月に、植村正久の牧する富士見町教会で、5回に亘って「イエスの宗教とその真理」について講演した。これは、キリスト教の正統派を以て任じ、、節操を固守する植村の教会であっただけに、非常な反響を呼んだ。そればかりでなく、宗教講演に入場料20銭を徴収したことは全く異例であった。会場は毎夜満員の盛況であった。これに対して「教理を神本位に説かず、人間的に説き、あまつさえキリスト教的とは言え、社会的言辞を弄することは異端である。その異端者に一夜二夜はおろか、五夜に亘って大講演をなさしめたことは、光輝ある富士見町教会を冒涜するも甚だしい」と騒ぎ立てるものがでたが、植村はその非難を黙殺した。
 その当時、賀川は労働運動者の一部から、無抵抗主義を攻撃されていた。その賀川の社会的な主張が漸く教会で問題にされだしたわけである。
 大正11年1月、賀川の編集する月刊雑誌『雲の柱』が、東京の警醒社から創刊された。日本の闇が深くならないうちに、新しい宗教運動を一層力強く推し進めるために、賀川とその友人たちの祈りから生まれたものである。
 また、賀川の聖書講演も従来とはその意気込みが違っていた。そして十分な準備の上、その梗概を印刷して聴衆に配った。
 賀川の説くイエスの言葉は、2000年前のものでなく、今日の言葉として、大衆の魂にふれ、イエスの教訓は賀川の体験を通して、聴くものに反省を与えた。(横山春一『賀川豊彦伝』から転載)