『貧民の帝都』 塩見鮮一郎

塩見鮮一郎『貧民の帝都』 (文春新書、2008年9月)

 司馬遼太郎が語らなかった「坂の下の人々」〜『貧民の帝都』塩見鮮一郎著(評:尹雄大)から転載

 明治維新の折、勝海舟西郷隆盛の行った虚心坦懐の談判により江戸は無血開城され、無辜の民は救われた。

 後世に伝わる美談だが、明け渡された肝心の城はその後どうなったか。本書の冒頭で明かされるのは、殿様気分を味わうべく多くの乞食や夜鷹(街娼)が住み着いたという事実である。東アジア最大の城郭は空家として捨ておかれたのだ。

 市中は衰微と混乱を極め、武家と富裕な商人層の姿が町から消えた。江戸はがらんどうになり、100万人を数えた人口は半減。駕篭かきや武士の雑用を勤める中間など、幕藩体制あっての職に従事していた人は路頭に迷った。

 明治元年、東京と改称した首都の経済は完全に破綻、窮民は溢れた。産声をあげたばかりの明治政府は、貧民対策に追われることになる。

 たとえば、司馬遼太郎の小説やエッセイでは、近代国家になろうと努力する明治政府の健気さが繰り返し説かれるが、著者が着目するのは、そうしたひたむきな努力の犠牲者たちである。

 行政や在野の組織は、近代化を進める中で生み出された貧民をどう扱ったのか。本書は、貧困対策の要となった養育院の変遷を軸に、豊かな市民社会の成立の経緯で隠蔽されてきた窮民問題に焦点をあてる。

 町奉行の業務を引き継いだ市政裁判所には連日、街頭に曝された屍の処理に関する訴えが殺到したという。著者は、現在の東京の街と対比しながらその惨状を記していく。

 本書によると、東京国際フォーラム周辺にあたる鍛冶橋御門内にあった死体は相当いたんでおり、「臭気甚敷(はなはだしき)」ものだったという。身元確認のため調査を行おうにも周囲の大名屋敷は留守番も置いておらず「乞丐非人之巣穴(きつかいひにんのそうけつ)」、つまり乞食と無宿者の住処となっていた。

 現在、証券会社の立ち並ぶ日本橋一丁目は、往事も活気ある土地であったが、「わらのなわを帯にして、竹の杖をついた老人」が倒れたまま放置され、夜になると人知れず死んだ。
乞食は怠け者。目障りだから隔離しろ

 日本橋は大店の並ぶ界隈であり、かつてなら行き倒れに助けの手を差し伸べた者もあったろう。飢えの果ての老人の死は急速なモラルハザードを窺わせるが、〈いまも厳冬期に凍死する路上生活者をニュースで報道しないのとおなじことか〉とさりげなく書き添えられるあたりに安易な憐憫を阻まれる。

 記録によれば、天皇江戸城に入った明治元年10月から翌年の8月までに捨て子160人、縊死人22人、行き倒れ死人291人にのぼった。なお、明治政府は調査の結果、都下の貧民を約5000人と計上。

 政府は身よりのない老人と子どもの救済する救育所を三田に開き、1800人程度を収容。この施設が養育院へとつながっていく。また現在の御徒町に近い下谷竹町に浪人専用の保育所も開設した。

 糊口をしのぐ程度であれ、わずかながらも救済に用立った施設だが、実は明治政府独自の考案ではなかった。江戸時代、飢饉の際に開設されたお救い小屋の再現であり、また窮民に提供された米も幕府の命で町人が備蓄していたものだった。

 寛政の改革以降、幕府は凶作に備えるため富裕な町人に江戸町会所をつくらせ、毎年2万両を積み立てさせた。明治になって残っていた町会所の財産は金が約61万8200両、洋銀およそ3383ドル、籾米4万石程度であったという。

 町会所は町人合議により運営されていたが、維新後、のちに財閥を形成する三井組らにとってかわられ、営繕会議所、さらに会議所と名称を変更。

 その会議所の意向により、貧民救済のために蓄えられた金穀は、救済施設に向かわず、土木建設といった公共の目的に支出されることとなった。巨額の資本は〈獰猛なブルジョワジーのまえに投げ出された子羊も同然であった〉。

 民意とかけ離れた組織の行う事業に福祉を望むには無理があった。明治5年、ロシア皇太子の訪日を控え、会議所は東京府からの打診に応え、現在の東大医学部近辺に救民施設の養育院を設立、240名の乞食を押し込んだ。見栄えが悪いという理由だ。

 皇太子の帰国後、養育院が会議所の管轄から東京府の直営に移るのと前後し、「乞食廃止令」が府知事名で公布される。