豊幸農場と共益社の思い出 木本郁
昭和15年と云う年は皇紀2600年の年であり、国の内外で各種の記念行事が行われたが、私自身にとっても文字通り記念すべき年となった。此の年の10月、大阪中の島公会堂に於いて、大阪キリスト教青年聯盟主催の2600年記念奉祝伝道講演会が催されることになった。
講師は同志社総長の牧野虎治先生と賀川先生の二人、そしてその司会者は40歳の青年の私が仰せつかった。嬉しい多忙な数日を経て当日を向かえ、私達少数の委員は両先生を囲んで会場の控え室に居た。その時、開会の時間が刻々と迫ってくるが、会衆は低調だと知らせて来た。すると賀川先生はツト立ち上がり「祈りましょう」と云われ、皆んなも立って手をつなぎ合い、先生のあの独特なお祈りが始まった。私は先生の隣りに居て、そのお祈りの中、先生の手を握っていた。ああ何と云う感激であろうか?。すると今迄の不安と焦燥もすっかり消えてなんとなく勇気百倍の思いがした。
時間となり幕が上げられ、牧野先生が話される時には、何とマアすっかり超満員、愈々賀川先生が立たれるときにはあの広い中央公会堂も超満員、壇上にも数十人の聴衆が座っていた。
当時の日本は、暴し膺懲とか、八紘一宇だとか云って、政治屋と軍部におどらされている時であったが、預言者である賀川先生は既に日本の運命を思って泣いていられた。そして、それこそ心血を注いでの講演であった。
今でも私の耳に残っているのは「日本の青年よ、行け八紘一宇を家となし、十字架の旗をかざして大陸の民に奉仕する者となれ」の一節で、愛国者賀川に対してこのような発言しか許さなかったのは当時の日本、私はそれを「日本の青年よ、銃を捨てて大陸に行け、大陸の民は待っている。而して十字架の旗を高くかかげて大陸の民に奉仕する者となれ、其処にこそ日本の生きる道はある。大陸は平和に本の青年を待っている」と先生が叫ばれたのだと解した。
豊幸農場
賀川先生は、カリフォルニアで農場経営に成功して巨万の富をつくり、日本に於いても同じことを試みて失敗したと云う中原幸太郎氏から1400町歩と云う広大な土地を先生の事業のために利用するようにともらわれた。其の場所は朝鮮の南の島済州島で、其処には数本の河が流れて居り、谷あり、丘あり、其の広さは丁度トルストイの小説に出てくる“人はどれだけの土地が要るか”に似ている。馬に乗って廻っても半日以上を要する程の広さであった。「農大の菊池博士に依頼して其の利用法を目下研究中だが、君一つ何とか経営してくれないか」と金田弘義牧師を通じて頼まれた。私は全然無経験の事であり、お断りした。然し、既に其の時はプランが樹てられており、朝鮮総督府から2万数千円の補助を貰うことにまでなっていた。
其の金で適当な場所に灌漑用の池を構築して30町歩の田を造り、朝鮮人の家族約30世帯を入植せしめ、小作料をとらずにその代償として植林をして貰い、30年後、毎年30分の1を伐採しながら植林をしてゆく。利益のあがる頃には賀川先生はもう地上に居られないだろうけれだ、当時の金で毎年100万円(当今の金で5、6億円)を生み、その中の50万円で賀川記念病院を建てて無料で診療し、尚余れば日本の基督教関係の子女の教育と保健について憂いのないようにすると云う大きな計画であった。
豊彦の豊と幸太郎の幸をとってこれを「豊幸農場」と名づけ、一口1000円の出資組合とした。その賛助者の顔ぶれは賀川豊彦、杉山元治郎、金田弘義、大丸百貨店社長・里見純吉、服部時計店大阪支店長・山岡光盛、桃屋順天館専務・桃屋勘三郎、伊藤源治、大川弘、脇田義雄、小林清吉、世戸清、高松清次郎等々の諸氏であった。
ところが御存知の通りのあの敗戦である。当時日本に来ていた朝鮮の或る人は「日本を引きあげるについて其の農場の権利を70万円で譲渡してくれ」と云って来た。それで私はあの大混乱の夜行列車の通路に一晩立ち尽くし、先生に相談のために上京した。東京で先生をあちこち探してもわからない。漸くのこと先生の居所を確かめた。その当時、先生は東久邇内閣の顧問として内閣の会議に出席中であった。私の名刺を出して「賀川先生に会わせて下さい」と云っても、日本石鹸社長の肩書きの名刺では受付係が通じてくれない。仕方なく、私はだまって上がって行き、昼食中の先生の横に立つと、先生は嬉しそうに迎えてくださったが、見れば先生はサツマイモの弁当を食べているのである。私はたまらなくなり、すばやく自分の“米の弁当”と交換、私は先生の薯弁当を笑って食べながら「豊幸農場」のこと70万円のことを話した。
すると暫くして先生は「カイザルのものはカイザルに、朝鮮のものは朝鮮に返すんだね。木本さんらしくもないよ。ハハハ」と笑われた。私は折角苦労して東京まで行ったが、先生から「それなら70万円で売れ」と云って貰えると思っていたのに、余りにもあっさりしていて狐につつまれたような格好であった。
ある日、大丸社長の里見純吉氏にひょっこり会ったので、農場のことを詫びつつ報告し、賀川先生との一件を話した処、里見氏は「カイザルの物はカイザルにか、ハハハ、君の罪じゃないよ」と言われた。
あれからもう20年、植えられた松、杉、檜も大きくなっている事であろう。“カイザルの物はカイザルに、朝鮮の物は朝鮮に”。何という愉快な話ではないか。
共益社
生活協同組合共益社は、賀川先生が生み出された幾つかの事業の中でも消費組合運動の最初のものであり、その歴史から言って大切な事業であることは論をまたない。賀川先生はお目にかかる度に「共益社のことは頼みます」とよく云われた。
其の共益社をお引き受けして数年後の昭和30年のことである。私の知らない間に思いもよらぬことを起こしてしまった。そのことで私の日本石鹸の信用に迄、悪影響を及ぼし困り果てていた。或る日、大阪での講演中に倒れて一麦寮に静養していられる先生をお見舞いした処、看病の為に東京からお越しになっていた御夫人が出てこられ(私はこの時が初対面)面会謝絶の由を申されたので帰ろうとしている時、中から先生が「会う」と大きな声で仰言るので恐る恐る病室に入って行った。
成程、先生は苦しそうに蒲団を積んでそれにもたれかかったおられた。これは困ったことになったぞと思ったとたん、何時ものあの大きな声で、「木本さん、ライオンが群れをなして住んでいる傍らに縞馬も一緒に群れをなして住んでいることを知っているかい。それはライオンの傍らに居ると他の猛獣に襲われないからだよ。ところが何かの拍子でライオンが腹をへらして、その縞馬にガブッとかぶりつくことがあるんだよ。僕でも君でもガブッとやられる縞馬なんだ。クリスチャンにもかみつく方とかみつかれる方と二つあるんだよ」と云われた。“縞馬とライオン”、“僕も君も”と云って下さった先生のその一言で、今迄の憂鬱も一ぺんに吹っ飛んで元気を取り戻すことが出来た。(『百三人の賀川伝』から転載)