協同組合と医療のこと 色平哲郎 日経メディカル

以下は、昨年「日経メディカル」向けに書いたものです。

  08年3月10日

 私は農協職員である。

 十数年来、長野県厚生農業協同組合連合会(厚生連)傘下の佐久総合病院(長野県佐久市、夏川周介院長)に勤務している。

 わが厚生連病院の存在が、一般にあまり知られていない現状は残念なことである。冗談でなく、「厚生連」なんだから「厚生省の病院」なんでしょうね、との言葉が返ってきたことがあった。

 農村と医療の結び付きは、農協の前身「産業組合」の設立にまでさかのぼる。産業組合が法的に認められたのは明治33年(1900年)。信用事業、購買事業、販売事業など、互助つまり「おたがいさま」の精神で、生産支援と農村の生活向上をめざすべく設立された。

 産業組合は、当初、地主や官吏を中心に上から組織されていたが、いわゆる大正デモクラシーの下、農民自身が担い手となっていく。そして事業の中に、利用事業、つまり医療(後の厚生事業)をとりこむ。

 その草分けとなったのが大正8年(1919年)に島根県鹿足郡青原村で組織された組合だった。「協同組合を中心とする日本農民医療運動史」(全国厚生連刊)に設立動機が記されている。

「青原村は交通上の要駅なるも医師を欠くこと多年なり、
元村内添谷部落に開業医ありしも十数年前に病没せり。
(略)村内有志のあっせんにより医師を招きて定住せしめしも経営意のごとくならず。
(略)医事事業を組合において経営するは本村の現状に鑑みて適切なるのみならず、
 組合精神を喚起する上にも効果あるべきを信じ…」
 
 無医村、医師不足への切々たる思いがつづられている。

 昭和に入り、大商社・鈴木商店の倒産に端を発した金融恐慌が農村を直撃する。
 娘の身売り、欠食児童、一家離散といった惨劇がくり広げられた。

 人々の暮らしが窮するほどに、互いに支え合う協同組合方式の医療は全国に広がる。
 そして単営の医療利用組合、いわゆる「組合病院」が都市部でも創設された。

 その一つがキリスト教社会運動家賀川豊彦が主唱し、 昭和6年(1931年)に設立された「東京医療利用組合」である。組合長には、農学者、教育学者で国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造博士が就任し、 感激的な挨拶を行っている。

 同組合の設立趣意書はいう。

「疾病に対する治療は、人間の最も尊貴なる生命の保護として、
 貧富、高下、都鄙の別なく享受されなければならぬことで
 あることは言うまでもありません。
 然るに今日の社会においてはあらゆるものが然るがごとく、
 医術もまた営利制度の下に運営されている結果、
 経済的に治療の負担に堪えない者は
 医療の保護を受けることの出来難い実情に置かれています。

(略)ここに計画せる協同組合病院は、かかる医療制度に代わるに、
 医は仁術なりの本来の精神に新しき経済組織を支え、
 もって組合員の協同の福祉のために運営せんとするものであります。
 すなわち組合員協同による医療並びに保健の設備をなし、
 信頼するに足る医師、看護婦、産婆等を置いて
 懇切なる治療、保健の指導援助をなさんとするものであります。
 ゆえにこの制度は多数の人々の協同の力によって、
 団体的に総合各科を備えた「抱え医」を設くるもの…」
 (前掲「医療運動史」より、現代カナに改め)。

 組合員の協同の力で、疾病予防活動にも積極的に乗り出す姿勢を鮮明にした組合病院。

 これに対して、日本醫師會や東京府醫師會は、
「…一般開業医は官公私立の大病院に上層階級の患者を吸収され、
 中産階級ともいうべき勤労大衆を組合病院に吸収さるるとせば、
 その存在を全く失う」(「日本醫事新聞」昭和6年5月1日)と
 猛烈な反対運動を巻き起こした。  

 八王子では組合勤務医を相手取り、
 医師会薬価規定違反を理由に訴訟を起こす(八王子事件)。
 秋田では県医師会が、
 胃潰瘍で組合病院に入院した患者が手術後死亡したことを「誤診」と決めつけ、
 地方紙上でキャンペーンを張った。

 秋田県衛生課は、組合病院の医師らを取り調べ、検事局に送検。
 帝大の鑑定医たちを巻き込む裁判が展開された。
 八王子では医師会が敗訴。
 秋田の組合病院医師は無罪となったが、
 医師会の反医療組合運動は猛烈かつ執拗だった。

 こうした歴史の上に公的健康保険制度が導入され、さらに戦後、国民皆保険が実現したのである。協同組合による医療機関設立運動から1世紀近くがたとうとしている今、 はたして医療界をとりまく意識は、どれほど進んだのだろうか。