賀川と信用組合理論と実践(2)(賀川豊彦学会論叢創刊号 1985年)日大教授森静朗

 中ノ郷質庫信用組合の誕生

 日本の信用組合の設立は品川弥二郎と平田東助の内務官僚の先覚者によって行なわれた。ドイツに留学した2人は明治19年に帰国するのであるが、彼等が学んだドイツは、ちょうど資本主義経済のもたらす弊害が階層分化の進行させ、労働者階級の不満がうっ積して、社会不安を醸成し、社会運動の活発な動きが起ころうとしている時期であった。ピスマルクが社会主義運動に対して弾圧を加えたのが、品川、平田の帰国後に起ったことであるが、日本でもちょうど資本主義の進行過程の中での階層分化と経済の矛盾の解決が内務官僚としての立場から治安維持ということから急務であった。彼等が学んだ信用組合はシュルツュ・デイリッツ式の市街地における相互扶助金融であった。
 品川、平田はこれを法制化しようと図ったが、明治24年には議会解散のために流産し、品川、平田にかわって、農林省農学者の関係の横井時敬、高橋昌らの反対者は協同組合を総合的な購買、販売、利用、信用組合を産業組合として発展させようとし明治33年3月にこれが法律として施行されることになった。これが産業組合法であった。しかしながら、平田の信用組合にしろ、農務省から提出された産業組合にしろ、これは銀行が政府の指導によって設立されたと同じく、政府からの指導によってこれを設立発展させようとするものであって、真の民主的な運動の中から起ったものではなかった。特に信用組合で、最も重要なことは、道徳的高い理想による民主的運動であり、自立共助の考え方に裏づけられるものでなければならないのに、日本においてはその運動は官僚的発想のもとに、社会的緊張を緩和させる手段として社会不安の解消をねらいとする上からの設立を奨励するものであった。
 今日でも多くの信用組合、信用金唐が精神的に醗酵することなし利益追求の金融機関として機能しているのは一に歴史的過程において政府の干渉によって設立されたことによるもので、最も地方分権的な機能をはたし民主的活動が重視されなければならない組合活動が中央集権的な統制によって規制にされていることは運動の土壌が稀薄であったといっても過言ではないであろう。
 信用組合の発展には自立共助の自治意識と民主的支配の実現と高い人類の理想を求める人々の精神的な醗酵が基礎にならなければならないのである。
 明治末期から犬正年間の第一次大戦後の不況をへて関東大震災、昭和2年の金融恐慌から、世界的大不況をへて暗い戦争に至るのであるが、第一次大戦後の著しい不況は、米騒動を生み、資本の集中化が進み、貧困は貧困を創り出し、農村においては婦女子の身売りなど、社会的恥部が露呈される時期でもあった。こうした時代の中に賀川豊彦の活動が注目され、すい星のように社会運動への開花となり展開されることになる
 賀川の最も軽蔑するのは慈善家であり、貧困を慈善家の手によって救済しようとする発想であった。人は神の下に平等であるべきなのに、それが貧富にわかれるのは社会の仕組みが悪いからであって、人にほどこそうとする意識は唾棄すべきである。救済ということは人間の自立を阻げ、他人に依存する依頼心を生むだけを生み出すものである。「貧民窟を軽蔑して同情しないで置いて下さい。貧民窟に住む人々にも自我があります。愛と同情は違います」と人間の平等と尊厳を主張する。「偉大にならなくてはならぬ民衆を芥溜の中に捨てて置くことはできない。我が愛する日本人は豚ではない。デモグラシーと産業民主主義はただ多数政治と多数決を意味するものではない。
 愛と相互扶助と、人格中心の世界を意味しているのだ「私が讃美せざるを得ないのは、ドン底にも一種の固い道徳と愛と相互扶助があるのです。
 賀川は人間がいかに貧しくとも自立により相互扶助によって自分達の生活を切り開くことを確信する。それゆえ、物質的な神を否定するマルクス主義と対決することにもなる「理想社会は、人間の結束力を強める愛と人格との上に成り立つ、それは協同組合を組織の母体とする社会、一口にいえば協同社会である」とものベる。
 賀川は、貧しさをなくすることは、人と人との団結であり、運動によってそれが推し進めることが可能であると信じ、労働者は団結して労働組合運動を、農民は集って農民組合運動を、消費者は自分たちの消費のための消費組合運動を通じて生活を守ることだと主張する。弱い者が集まって力を合わせ強いものに対抗することが組合運動の本質であると主張する。信用組合運動もまた庶民のための金融の円滑化にあると考える。
 賀川は日本に協同組合が発達しないのは「協同組合が資本主義に対し遠慮し過ぎたからであり、無産階級に非常に矛盾した法律が多く出来ているから」である。また「信用組合が農村金融機関として任務を十分果し得ざる現状に在るのは、役員に地主が多く、地主の出資高も又多いところから、自然実権が地主の手に在り、且つ、貸付方針が安全第一主義に堕し、対人信用から対物信用化して行くところに重大な原因がある」とする。
 信用組合の必要性は「防貧、救貧の二つの道を兼ね、資本の集中を防止し資本の個人的集積をなくする運動としては最もキリスト教的である」。また「日本の信用組合は、また奉仕献身の心に徹底していないから高利貸のようなところがある」と奉仕献身による社会への関心と努力が信用組合の活動を支えるものであると述べている。
 中ノ郷質庫信用組合はそれらの精神的支柱を母胎に設立されるのである。大正12年9月の関東大震災後の罹災者の救護活動が本所横綱町附近を中心に行なわれ、賀川の救援活動の手が差し伸べられる。託児所、診療所、簡易宿泊所、日曜学校、職業人事相談所を設け、「大鵬は灰燼より起る」と伝道につとめ、精神的気力の回復をはかろうと努力する。
 岡本利吉等が中心になって設立した大島労働金庫が解散し、その整理残金の中から1,000円寄附されたことがあり、それを産業青年会の人事職業相談所で僅かの生産資金で職を得ることの出来る人のために、それを小口融資資金に充当させることにし賀川はこの仕事を「神視社」と命名し、無利息、信用貸付をしたが、返済の停滞と回収難のため、この仕事は中止することになった。このころ奥堂定蔵が質店を経営していたが、賀川の活動に共鳴し産業青年会を援助して、震災後の罹災者に対し法外な金利をとって経営する業者に道義的に義憤を感じ小島威、高野正英と共に質屋改造連盟を組織して、質屋業者に対する覚醒運動を行なった。また当時無尽業者によって法外な金利をとられて生活の困窮者を救済しなければならないという要求も起った。
 前田繁ーは「中ノ郷質庫信用組合は多年庶民階級と生活を共にし庶民階級の営業苦、生活苦を自己の営業苦、生活苦としてその改善、打開に一生を捧げられた故田川大吉郎氏や、今日まで一切私を滅却して細民、庶民の生活改善に一身を投じて変ることなき賀川豊彦氏や、木立義道氏、永年細民の実情、庶民の心情を自己の心情として細民金融を実践して来た奥堂定蔵氏等が相寄り相謀って設立され、常にその実情に即して運営」されたのである。
 昭和3年6月14日、東京府知事の認可を受け、8月1日から事業を始めるが、日本で最も精神的な人類愛の中から自立共助の意識のもとに生まれた初めての信用組合であり、しかも質庫を共営したところに庶民への暖かい心遣しのみられるものであった。
 中ノ郷質庫信用組合の誕生は、日本の信用組合史上稀にみるものであり、庶民の中から生まれ庶民の手によって自治共助を旗印にして発展しつづけているのである。(賀川豊彦学会論叢 創刊号、賀川豊彦学会 1985年11月)