労働者農民の自由と幸福のために 賀川純基

 1918 賀川が2年8カ月のアメリカにおける神学研究をおえて帰国したころは、イギリス流の労働運動が日本ではじまり、「友愛会」という名が漸く労働者の口にのぼるようになっていた。賀川はすすんで友愛会に加入し、労働者と接してその生活にふれることができた。
 その頃は労働者の人格はみとめられず、8時間労働制も団体交渉権も問題にされない状態で、資本家に反省をうながすことも、労働者の教養をたかめることも困難をきわめた。
 また当時の社会思想界は混沌としていて、ギルド社会主義アナキズム、ボルシェビズムなど入りみだれて勢力を競い、それを労働運動者を四分五裂しようとするので、組織も団結も容易なものではなかった。その中で賀川は暴力を否定し、人格を重んじ、議会政治をみとめ、いわば人格社会主義の立場をとった。だから、一部の急進的な労働運動者には攻撃されたが、関西地方の労働者たちは、賀川の穏健な運動方針に心よくしたがった。
 1921 神戸市の川崎造船所、三菱造船所の争議は、参加人員3万、争議日数60日という日本はじまって以来の大争議であった。結果においては労働者側の敗退に終わったが、秩序を保った暴力否定の争議ぶりは、日本労働運動史上に大書せらるべきものであった。
 その秋、賀川は同志と語って日本農民組合の組織にとりかかった。農民も、労働者と同じように資本家である大地主には極めて弱いものであった。その生活は苦難にみち、子弟の養育もできないほどきびしい小作契約によって束縛されていた。農民運動の表面の目標としては、小作料の適正化、小作契約の正常化をうたっていたが、「土地を働くものの手に」という究極の願望を秘めていた。小作契約は年とともに改正されていったが、土地問題の解決はその見通しもつかないようであった。しかし、第二次世界大戦終了と同時に農地解放が行われ、働く農民が自分の大地に鍬をうち込むことが出来る時代になった。
 1923 一般が時代に目ざめてくると、大衆が選挙権をもって政治に参加できるようにとの願いから、賀川はその先頭に立って議会政治への参加と、社会主義政党の出現をねらった。アナルコサンジカリズムを奉する労働運動の一派は、過激な言動をもって大衆を煽動する方法にでていたが、それを封ずるかの如く1925年、普通選挙法が国会を通過した。
 1924 賀川は労働者農民が真の自由と幸福を得るには、普通選挙からさらに一歩をすすめた社会主義政党を作らなければならないと考えていた。それだから1925年アメリカを一巡してヨーロッパに足をふみいれると、機会をつくって労働組合運動と労働党の研究に没頭した。イギリスでは、イースト・ロンドンを訪ねるとともに、ラスキン労働大学を見学し、マクドナルド首相、ポンドフィルド女史と労働党について語り合ったのもそのためであった。フランスでは労働総同盟を訪問したり、ジャン・ジョーレスについて調べるところがあった。
 ところが社会運動はだんだん共産化していった。それと勢力を競うように右翼団体の活動が活発化し、相ついで高位高官の暗殺事件がおこった。右翼と結び付いた軍閥の動きもはげしくなり、満州中華民国に兵をおくって国際間に物議をかもした。賀川はさびしくなりそれを眺め、正しい日本の建設のためには、聖書に基盤をもつ社会事業、労働運動、経済運動がなければならぬことを考え、宗教運動家として「神の国運動」を全国に展開した。また、農村の二、三男問題、人口食料問題、冷害凶作の解決法まで憂えて、佐久本と家畜と樹木作物を組み合わせる立体農業を唱え、農村の青年男女に希望をつないでいた。
 1945 はげしかった第二次世界大戦が終わると、賀川は同志とともに日本社会党を結成し、国会に多数の同志を送り出すことができた。1947年には、社会党片山哲を主犯とする内閣が成立した。(賀川純基「賀川豊彦・人と業績」)