賀川豊彦の社会事業における開拓的役割 賀川純基

 1909 日本で最も大きく、しかも悲惨な貧民窟である、神戸市葺合区の新川に入った賀川は、神戸神学校の学生であった。彼はロンドンにおけるトインビーホールの事業を想起しながら、彼自身を技師としてその実験場に住んだのであった。彼のしごとはキリスト教の伝道が主な目的であったが、それはまた小さなセツルメント・ワークでもあった。年とともにその事業は拡大して医療救済、授産事業、簡易宿泊、簡易食堂などを加えた。その上これに奉仕する学生たちにとっては、またとない人間形成の場所であった。賀川は、日本の社会事業がまだ慈善事業とよばれていた時代に、防貧的な政策をたてて、そこに一つの活路を見出そうと努力した。その当時の苦難にみちた生活ぶりは、賀川の小説『死線を越えて』にくわしい。その後、貧民窟の住宅改良、人口疎開または一般の職業紹介などに関する賀川の発言は、時の政府がとりあげるほど適切なものであった。そこにおける事業は今も「イエス団」として、キリスト教会、保育事業、人事相談、宿泊事業、医療事業などが継続され、貧しい人々の生活の灯となっている。
 1923 突如として東京、横浜地方を襲った大地震は、未曾有の災害を記録した。賀川はその報を耳にすると直ちに神戸から駈けのぼり、最も被害の大きかった隅田川の東側にテントをはり、東京市庁、日本赤十字社キリスト教連盟などと連絡をとり、衣服、寝具、食糧の配給、行方不明者の調査、法律相談、建築相談等にあたった。他方、暇をつくってキリスト教による精神復興を説いてまわった。文豪徳冨蘆花は賀川の活躍ぶりをきいて、「この1年間のあなたの仕事は、人間業ではなかった。それは現在の奇蹟であらねばならね。私は一度もあなたの働きを目撃しなかった。しかし八種の東京の新聞に日々眼を通す私は、あなたの消息を決して見おとさなかった。あまり働きがはげしいので、無論心配もし、祈りもしていた」と、感激の言葉をのべてその労苦をねぎらった。
 1925 アメリカからヨーロッパ各国をまわり、キリスト教伝道、社会事業、労働運動、社会政党、などを研究して帰国した賀川は、まず大阪の労働者街に四貫島セツルメントを創設した。救済よりも防貧のために、一つの新しい実験をしたかったともいえよう。
 こうした賀川の活躍ぶりを見た東京市長は、東京の社会事業を再建するために社会局長になってもらいたいと申しこんできた。しかし賀川は「神の國運動」に専念するため、それを断り顧問として指導にあたることになった。それによって東京市には各所に隣保館が設けられ、授産事業がおこり、また、安心して遊ぶ子どもたちの姿が児童遊園に見られるようになった。やがて東京市大阪市が慈善事業から防貧的社会事業にふみきり、日本の社会事業全体の大きな転進が行われるようになった。
 賀川は社会事業において、救済事業よりも防貧事業に重点をおいていた。そればかりでなく、賀川の生涯は救済事業をやりながら、労働運動、農民運動、協同組合運動、社会主義政党の結成などを防貧事業の一環として進めてゆこうとするようにも見えた。
 1927年頃から、軍閥が次第に頭をもたげてきて、賀川の運動は日を追うて困難になってきた。ことに第二次世界大戦前と、戦時中は賀川の一挙一投足は時の政府の厳重な監視のもとにおかれた。
 大戦がすむと、社会事業の行き方は私設社会事業から国家経営の社会事業へ動きだし、社会福祉事業法、生活保護法、児童福祉法などの法律がそれぞれ新しく作られた。
 日本の社会事業の中で特筆すべきことは、救癩事業が次第に実を結んできて、30年後には絶滅するであろうという明るい見通しである。それは各階層の理解と協力によることながら、賀川が同志と日本救癩協会をつくり、また一流の婦人雑誌に救癩小説を連載して、広い範囲にわたり、癩病に対する認識をあたえた功績も大きい。(賀川純基「賀川豊彦・人と業績」から)