兄弟愛による協同組合運動 賀川純基

 1919 消費組合というものは、生産階級と消費者が結びあって、社会的秩序と互助組織を作るものであり、そうすることによって商業上の投機もなくなり、労働階級からの搾取もなくなると、賀川は確信した。そこでまず、大阪に購買組合共益社を、1920年には神戸購買組合、1926年に東京学生消費組合、1927年に江東消費組合、1928年に中ノ郷質庫信用組合をそれぞれ組織した。中ノ郷質庫信用組合というのは、貧民窟の人々が気楽に出入りでき、手軽に安い利息で品物をあずけて金を借り、約束の期日にたとえ支払いができなくとも、品物に対する権利がなくならないようにと、自分たちの手で質屋を経営しようというのがその主旨であった。この企ては全く貧民街の人々に福音となり、ながく利用されて今日に至っている。
 1930 さらに賀川は、医療の大衆化をはかり、数々の困難を克服して東京医療購買組合を組織し、組合によって総合病院を設立した。
 こうした賀川の協同組合運動は、多くの支持を得て、各地に賀川の協同組合に学んで多くの協同組合が設立された。賀川のもっている協同組合の理論と実践は、小説『乳と蜜の流るる郷』に吐露され、協同組合連合体の機関紙「光の家」に連載されて、1カ月発行部数6万部ほどのものが130万部を突破するほど好評をもって迎えられた。
 賀川は、協同組合は階級間にだけ行われるべきでなく、国民のすべてが利用すべきであり、それはさらに国際間にも相互に用いられるべきであると言い、国際協同組合の設立を提唱した。賀川は海外にキリスト教伝道を目的に使いすること度々であり、そのたびに協同組合の必要性を説いてきた。中華民国の合作社の運動、アメリカやイギリスの協同組合運動にも大きな影響を与えた。賀川の「Brotherhood Economics」は協同組合運動のテキストとして広く世界のすみずみにまで愛読せられた。まら、アプトン・シンクレアは小説『協同組合』のなかに賀川の名をあげてその指導を感謝している。
 1945 戦後は、日本協同組合同盟などをつくり全国的な組織の中で活躍している。1958年には、マラヤのクアラルンプールで開かれた国際協同組合同盟の東南アジア会議に日本代表として出席し、のちその中央委員となった。
 光の家協会理事、日本生活協同組合連合会会長、日本協同組合連合協議会副委員長、東京労働金庫顧問をつとめるなど、枢要な役割を果たした。(賀川純基「賀川豊彦・人と業績」から