世界国家と平和運動(1) 賀川純基

 1902 賀川豊彦が、平和思想を抱くようになったのは「聖書」をよみはじめてからである。仏教徒古い伝統に生きていた1900年代の日本において、「聖書」をよむことは冒険であった。ことに、両親を失って、伯父の家に寄寓していた賀川が、「聖書」をよむことは無謀というものであった。しかし、少年賀川は「聖書」を人間行動の基準にして、生きてゆくかたい決意にみちていた。そればかりでなく、聖書に示されている神と、神の愛を説くことを生涯の仕事にしようと、すでに伝道者としての招命をもっていた。
 1905 日露戦争と字である。トルストイの「我宗教」「我懺悔」が翻訳され、たちまちベストセラーとなった。賀川もこれをよんで平和思想と無抵抗主義について強い示唆をうけた。中学校卒業を目前にして、軍事教練の時間、突然銃を地面に投げ出して、「人殺しのまねはいやだ」と叫んだことがあった。怒り狂った教官は、その顔をなぐりつけ、足蹴にした。校庭に倒れ、血にそまってうめいていた賀川は、自己を平和主義者の一人として任じて悔いなかった。
 1906 徳島中学校を卒業した賀川は、明治学院神学部にすすんだ。1906年の夏賀川は「世界平和論」をつづって、徳島毎日新聞に投稿し、3回にわけて掲載された。それはカントの平和論を引用し、マルクスの主張、カーライル、ラスキントルストイなどの言葉をかりて人道の本義を語り、無抵抗主義を説き、帝国主義から社会主義への道を論じ、遠く世界の平和にまで論及したものであった。
 賀川においては、平和はキリスト教信仰と併存するものではなく、キリスト教信仰即平和であった。無抵抗主義者として大きく世間につたえられたのも、平和主義者の一面のあらわれであった。その当時、平和を論じた主なものに、次のようなものがある。

  • 軍国主義に就て 「人間苦と人間建築」(1920)
  • 戦争の哲学 「生存競争の哲学」(1922)
  • 愛と暴力 「愛の科学」(1924)
  • 平和の愛好者日本 「賀川豊彦氏大講演集」(1926)
  • 「戦争は防止し得るか?」(1935)
  • 世界平和と神的意識 「処世読本」(1937)
  • 世界平和と国際協同組合運動 「産業組合の本質と其進路」(1940)

 1921 イエスの友会を創立すると、五綱領をさだめ、その中に「世界平和のために努力すること」の一項目を加えて、その方針を指示した。イエスの友会では、つよくこれをまもることを誓って今日に及んでいる。
 1925 ヨーロッパを旅行中、ロンドンにおいてタゴールガンジーアインシュタイン、ロマン・ローランらと名を列ねて、徴兵制度反対の宣言書を国際連盟に提出した。これを軍部が聞知してからは、賀川の言動を厳重に監視するようになった。
 1938 第二次世界大戦がはじまる前は、賀川の行動に監視がつき、言論の自由が甚だしく束縛された。1938年の小説『約束の聖地』のなかに「宇宙の心理を求めようとするような人間の行動は、露ほども見られなかった」と記したところが、法律にふれるといって削除を命ぜられた。1940年8月には反戦論の疑いで憲兵隊に拘引され、18日間留置の憂き目にあい、それにひきつづいて1922年以来毎月刊行されていた雑誌「雲の柱」の終刊号の巻頭には「エレミヤ哀歌に学ぶ」という賀川の説教がのった。
 その終わりの部分に「口を塵につけよ、エレミヤ哀歌にこの心理をうたった詩人の気持ちを理解しなければならない。そうすれば神は永久に民をすて給わぬということが自らわかってくるのである。世界の理想は神中心の神の国の組織である。そこにはいささかも悪の支配もなく、ただ愛と謙遜と知識と芸術とが支配するのみで、即ち正しき者が勝利を得る世界である。この究極の心理を忘れてはならない。これを忘れる者が負け、これを忘れない者が勝つのである。世界を救う心理のためには徹底的のはずかしめを受けることも時には忍ばなければならない。与野救いのためには癩謝の膿をすう覚悟がいる。即ち、口を塵につけよ、あるいは望みあらん。おのれをうつものに頰をむけ、充ちたれるまでにはずかしめをうけよである」
 と書いたのが、検閲者の目にとまり、終刊号は発売禁止となり、雑誌は没収された。
 1941 4月にアメリカに赴き300回をこえる講演で、日米両国間の平和をとき、戦争をさけるために努力した。9月5日晩、西荻窪有馬頼寧のところで、近衛首相と約3時間、日米平和工作について懇談した。その後いよいよ日米の風雲急をつげたとき、首相がルーズベルト大統領と会談したいと、いうことをスタンレー・ジョーンズ並びに大統領に、賀川が打電した。
 折り返しスタンレー・ジョーンズからの電報は「ここ1週間があぶない。ワシントンで徹夜の祈祷会を開くから、東京でも開け」というのであった。賀川は同志たちと連日連夜不眠の祈祷会をひらいた。1週間つづけた後、ローソクの火をふき消したとき、真珠湾攻撃の報が、ラジオのスピーカーから流れでていた。
 1943 5月27日、神戸市における伝道集会の講演が反戦思想、社会主義思想の故をもって神戸相生署で取り調べられ、また11月2日から9日間、反戦的行為があったとして東京憲兵隊本部の取り調べをうけ、ついに友和会の解散、国際戦争反対者同盟からの脱退を強要され、爾後の宗教運動も制限をうけるようになった。(続)