伝道者としての賀川豊彦 賀川純基
賀川の活躍が、あまり広い範囲にわたるので、賀川の本領があいまいなものに見えたりするが、キリスト教の福音伝道こそ賀川にとって、生死を賭ける大事業であった。賀川は貧民窟でも、労働運動でも、また平和運動でも全力でたたかった。しかし、死場所は、先導の途上でと、賀川は思っていたのではなかろうか。それほどに、キリストの伝道者としての使命をつよく感じていた。
主なるキリスト教伝道をあげてみよう。
国内大挙伝道
- 1925 百万人救霊運動
- 1929 神の国運動
- 1933 協同伝道
- 1946 新日本建設キリスト運動
海外伝道
- 1924 11.25−7.22 アメリカ、ヨーロッパ
- 1927 8.16− 中華民国
- 1930 7.19− 中華民国
- 1931 1.13−2.13 中華民国
- 1931 7.10−11.12 カナダ、アメリカ(世界YMCA大会)
- 1934 2.−3.14 フィリピン
- 1935 2.16−7.30 オーストラリア、ニュージーランド
- 1935 12.5− アメリカ
- 1936 7.8− ノルウェー(世界日曜学校連盟大会)
- 1938 11.15−3.18 インド(世界宣教大会)
- 1941 4.5−8.16 アメリカ(平和使節)
- 1944 10.20−2.5 (中華民国)
- 1949 12.22− イギリス、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー
- 1950 7.15−12.28 アメリカ
- 1953 1.28−6.24 ブラジル
- 1954 7.1−10.25 アメリカ、カナダ(第二回世界キリスト教会議)
- 1957 1.23−2.22 タイ
- 1958 1.22− マラヤ(国際協同組合同盟東南アジア会議)
1959年1月5日、四国のキリスト教伝道に風邪で発熱しているにも拘わらず、「伝道者は、伝道途上に倒れるのが本望だ」と、出発を延ばすようにとすすめる同志の言葉をしりぞけて、旅に出かけた。しかし、ついに病気には勝つことが出来ず、1月6日早朝、宇野高松間の連絡船から高松桟橋におりると、はげしい病苦と呼吸困難のため一歩も前進することが出来なかった。その朝、高松市の聖ルカ内科病院に入院して両様につとめた。3月24日、東京の自宅に帰り、一時は中野組合病院に入院することもあったが、自宅で引き続いて療養中である。
気分のすぐれた日には、自らペンをとってキリスト新聞の「不尽油壺」の欄に原稿をかき、ときには、ラジオ放送のため録音をとることもあった。