賀川豊彦とバートランド・ラッセル(1)

 バートランド・ラッセル氏は、愈々(1921年7月)十七日正午、神戸入港の栄口丸にて来朝せり。同じ思想の流れを汲む賀川豊彦氏真っ先に出迎え、同氏並びに改造社・山本実彦氏(=社長)の介添えにて、ラッセル氏は、目下罷業(=ストライキ中)の職工団と挨拶を交換せり。なお、氏は病後いまだ健康旧に復せず、(決まっていた)各大学にての講演も或いは見合わすやも知れず、なお努めて、新聞記者等にも面談を避け居れり。十七日は深更二時まで(神戸の)トア・ホテルにて、賀川氏と歓談せる模様なり。此の世界的学者が労働争議中の神戸に先ず上陸せるは皮肉なりというべし。因みに、今回は、当局官憲も尾行を付さざる由にて、同氏は、大阪、奈良、京都等を巡遊して入京、本月末横浜解纜、加奈陀(カナダ)に向かうという。(『婦女新聞』1921年(大正10年)7月第4日曜号掲載)

 「ラッセル氏、神戸着」

 ラッセル氏は、十七日午前十一時三十分、営口丸にて神戸港第二埠頭に着、賀川豊彦氏以下労働者代表者の出迎えを受け、神戸のクロニクル主筆ヤング氏宅に入れり(神戸電話、『東京朝日新聞1921年(大正10年)7月18日付第3面)

「労働者隊の歓迎に感激のラッセル博士−美しいブラック嬢の姿も見えて元気な上陸」(『東京朝日新聞1921年(大正10年)7月18日付第3面)

 バートランド・ラッセル氏を乗せた営口丸は、十七日午前十一時三十分、神戸港第二埠頭に沿って徐航して居る。此日恰も大倉山公園にて催された労働者の運動会にて勢揃いせる各労働組合会代表者約百余名、数十旒の旗を押し立て労働歌を唄いつつ波止場に来て整列出迎えた。ラ氏は白の背広にヘルメット(帽)をかぶり、籐椅子に凭(よ)って居たが、労働者の出迎えと見て、抑え切れぬ喜びを見せ起って欄干に凭(よ)った百余名の労働者は一斉に旗を振り万歳を唱えた。やがて船は横着けされた。先ずラ氏に握手せるは賀川氏(右写真「ラッセルと賀川豊彦: From R. Clark's The Life of B. Russell, 1975)で両氏の間に慇懃な挨拶が交換された。次に記者が握手して、歓迎の挨拶を述べ、「ご病気は如何です」と聞くと、「もう大分良いが未だ疲れて居ます、有り難う」と答える。記者は殊更対話を避け、門司からラ氏に随行改造社の橋口氏に船中での模様を聞くと、支那で三箇月も殆ど病床に暮らしたラ氏も日本の風景に接してから不思議なほど元気となり、昨夜瀬戸内海を航行して居た間は夜の一時頃までデッキに月光を浴びつつ、ブラック女史と歓談して居たと。其のブラック女史は薄鼠色の洋装涼しげに、賀川氏と握手して居る。エレン・パワレス女史(松下注:Eileen Power アイリン・パワー)も同じく随行して居る。舷梯(げんてい)を下るラ氏は、左足が悪いと見えてステッキを力に痛々しげな歩きぶりである。自動車に両女史及び神戸クロニクル主筆ヤング氏と同乗したが、労働者隊が二列縦隊に整列して居る前に来ると、早々(?)自動車を止め扉を開き足台に降り立って帽子を取り挨拶をした。今日一日は塩屋(しおや)のヤング氏宅に静養する筈。ラ氏の日本滞在日程は確定しないが多分十八日は賀川氏を茸(?)合の貧民窟に訪うた後同日出発。大阪、京都、名古屋、日光に遊び、来月初旬横浜出発、米国に向かう筈である。(松下注:結局、名古屋には行かなかったハズ)(神戸電話)