日中戦争時における賀川豊彦の謝罪 小南浩一

東アジア総合研究所コラムから転載

賀川豊彦(1888〜1960)は、1909年(明治42)、21歳の時に神戸の貧民窟(スラム)に入り、キリスト者として貧しい人々のために生涯を捧げる決意をした。以後、労働運動・農民運動・無産政党運動・消費組合(生協)運動・平和運動など幅広い社会運動を展開したことから、のちに「社会運動の父」と呼ばれた。また「貧民窟の聖者」として、その名は国内のみならず海外にも聞こえ、欧米では1930年代を「カガワ・ガンジー・シュバイツアー」三人の時代と呼んだという。

今年、2009年は賀川が貧民窟に入ってからちょうど100年目の年となる。賀川が関わり、現在に引き継がれている「コープこうべ」をはじめとする様々な組織・団体がこれを記念して「2009 賀川豊彦献身100年 ―平和・人権・共生―」の名のもとに、基調講演、シンポジウム、出版、映画、音楽など、多くの事業を計画している。「献身100 年」の記念事業実行委員会に名を連ねている組織・団体は、生協や共済関係の他、明治学院大学以下、青山学院、国際基督教、関西学院同志社神戸女学院桜美林など賀川と関わりのある多くの大学も名を連ねている。

さて、賀川豊彦は生前、欧米のみならず、アジアやオセアニアなどまさに「世界を私の家として」講演その他にかけまわったが、特に中国との交流は密なるものがあった。 1920年(大正9)、上海日本人基督教青年会主催の第1回夏季自由大学講師として、賀川ははじめて中国の地を訪れた。以後、戦前における賀川の中国訪問を略年表で示すと、

1927年(昭和2)8月     上海基督教経済会議に日本代表として出席
1930年7月〜8月       中国伝道
1931年1月〜2月       中国伝道
1934年2月〜3月      フィリピン伝道の帰途、中国へ、内山完造に連れられ、魯迅宅で
                会談、上海、鴻徳堂で「日本軍の中国侵略を謝罪」
1938年5月〜6月      満州伝道、新京協和会本部で甘粕正彦、武藤富男らと座談
1938年11月17日      上海メソジスト教会で「支那に赦罪する」という演説
1940年5月〜6月      満州伝道
1942年8月〜9月      満州伝道
1944年10月〜45年2月  中国・中華日華基督教連盟の招待で、宗教使節として講演


1920年の最初の中国訪問は、当時、中国や朝鮮の留学生を支援し、両国との友好関係を企図していた吉野作造の推薦による。この時、賀川は中国革命の父と称される孫文と会見している。孫文は次のように語ったという。「日本は朝鮮の為にといって支那と戦い、支那の為にといってロシアと戦ったが、それは口実で今日は略奪者となって居る。日本が略奪者となって以来、もう日本に対する尊敬の心は無くなった。」

孫文は、日露戦争による日本の勝利が、西欧諸国の植民地支配に苦しんでいるアジアやアフリカの人々を大いに勇気づけ、日本はアジアの希望の星となったが、しかし、その後の韓国併合、さらには前年1919年の三一独立運動における日本の弾圧でその希望は失望に変わったと厳しく日本を批判したであろう。

上海での夏季講座を終えた後、賀川は中国の要人に会っている。のちに中国共産党を創立する陳独秀、当時、北京大学校長であった蔡元培、そしてもっとも意気投合したという胡適(当時29歳で北京大学教授、のちに北京大学長)。

1931年の満州事変以降、あの孫文の「叱責」が、ますます現実のものとなる事態に心を痛めていた賀川は、1934年2月、フィリピン伝道のとき、ルソン海上で次のような一文を記した。

私は日本を愛しているのと同じように、中国を愛しています。さらに、私は中国に平和の日が早く来るように祈り続けてきました。日本軍のあちこちでのいやがらせで、私は異常なほどに恥じました。ところが、中国の方々は日本がどんなに凶暴だったにもかかわらず、私の本を翻訳してくれました。私は中国の寛容さに驚かずにはいられませんでした。例え私が日本の替わりに百万回謝罪しても、日本の罪を謝りきれないでしょう。… (省略)

孔子墨子を生み出した国民の皆様よ、お許しください。…(省略)

現在私は謝罪することしかほかに何にも考えられません。…(省略) 

これは賀川著『愛の科学』の中国語版(34年6月刊行)のために書き下ろされた「著者新序」の一節であった。このフィリピン伝道の帰途、上海の鴻徳堂で賀川は特別礼拝に招かれている。二年前の第一次上海事変のとき、鴻徳堂の信徒と牧師は全員、日本軍によって虐殺された。当日、鴻徳堂は四百名、礼拝堂の階下は満席であったという。賀川は、日本軍による中国侵略を謝罪した。こうした賀川の上海での謝罪は海外のメデイアにも報じられた。

さらに、1937年7月の盧溝橋事件による日中戦争勃発の直後、賀川は「涙に語る」と題する詩を書いている(原文のまま掲載)。

涙よ 涙よ 幼き日よりの 親しき友 涙よ暫く別れていた 涙よ またおまえと同居する時が来たね。 真夜中に 夜明けに 真昼に 午後に おまえは しばしば 私を訪ねて来るね。 おまえは 私の兄弟「支那」の 滅び行く ニュースを伝えてくれては 私を罵つ  て帰つてゆくね。私はおまえの罵りをいくらでも受ける 私は卑怯者ではない。 ただ私は日本を愛し支那をも愛している この二人の 愛するものに喧嘩をさせたくない。そのために 私は毎日気を揉んでいるのだ。(以下、省略)

この詩もまた、アメリカはもとより、フランス語にも訳され、「軍国日本の良心の声」として欧米に伝えられた。盧溝橋事件のあとの10月の日記に、「我々は飽くまで覇道を歩まないで、仁を基とする王道を、孔子の曰つた如く歩むべきだ」と、軍部の戦線拡大を批判した賀川の胸に、あの孫文の「叱責」は確かに届いていたのであろう。

このように、日中戦争当時、賀川はリアルタイムで中国に謝罪した数少ない日本の知識人であったが、その後の状況は、そんな賀川をものみこんでしまったのである。

執筆者:小南浩一(北陸大学教育能力開発センター准教授)