「相愛互助」不況下で関心 賀川豊彦 救貧活動100年 【読売新聞】

 6月5日の読売新聞の文化面に『「相愛互助」不況下で関心』『賀川豊彦 救貧活動100年』との見出しで賀川豊彦献身100年のことがが大きく紹介された。残念ながらネットには掲載されていない。

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「相愛互助」不況下で関心 賀川豊彦 救貧活動100年【2009年6月5日読売新聞】

 シュバイツァーガンジーとともに海外で「20世紀の三大聖人」ともたたえられながら。戦後忘れられたキリスト教社会運動家賀川豊彦(1889-1960)が、貧民街で救貧活動を初めて100年。その「相愛互助」の思想が、貧困や格差などを克服する手がかりを与えるとして脚光を浴びている。(植田滋)
 賀川豊彦は多面的だ。労働争議、農民運動、協同組合創設、セツルメント活動(地域福祉事業)を指導した活動家であるとともに、戦前400万部のベストセラーとなった自伝小説『死線を越えて』の作家として知られる。プロテスタントの牧師として伝道する一方、「世界国家」を構想した平和運動家でもあった。
 神戸市生まれの賀川は幼くして両親を失い、育った徳島県アメリカ人宣教師と出会い、16歳で洗礼を受けた。結核に侵され余命短いと思い、ならばイエスに倣おうと決意。1909年、21歳で神戸市の貧民街に住み、病者保護や無料葬儀などの救貧活動を始めた。
 <おいしが泣いて、目が醒めて、お襁褓を更へて、乳溶いて、椅子にもたれて、涙くる。・・・>。「涙の二等分」は、貧民街の子どもに寄り添う生き方を伝える詩として知られる。
 キリスト教関係者らは今年、「賀川豊彦献身100年記念事業」を展開。すでに数回のシンポジウムや映画『死線を越えて』の上映会が行われたほか、小説『死線を越えて』(PHP研究所)、『空中制服』(不二出版)が復刊された。12月22日には神戸市で記念式典が予定されている。
 賀川豊彦記念・松沢資料館(東京都世田谷区)の加山久夫館長は「数年前から行事を企画していたところに、経済危機が重なった。最底辺の人々の立場に立ち、兄弟愛の精神で互いに支え合うという『相愛互助』思想は、不況下で強い関心を集めている」と言う。
 特に注目されるのが、<一人は万人のために 万人は一人のために>という標語のもと、賀川は大正期から消費組合や医療利用組合、協同組合金融を先導した。日本協同組合同盟(後の生協連)の初代会長も務め、「生協の父」とされる。4月に母校・明治学院で行われたシンポジウムでは、野尻武敏・神戸大学名誉教授(経済学)が「個人主義、物質主義、合理主義からなる近代文明が行き詰まっている。共産圏が消え、市場原理主義が失敗した、賀川の説いた協同組合運動が時代を担う」と語った。
 キリスト者としても再評価されつつある。栗林輝夫・関西学院大教授(神学)によると、賀川のキリスト教には<私の中に神の力が、はえて来る>と書いたように、神と人とが合一する神秘体験に基づく神秘主義がある。正統神学ではないため、戦後の教会は無視してきたという。しかし教授は「正統重視の教会から彼ほどの人材が育っていないのだから、積極的に社会にかかわる賀川の信仰のあり方は、もっと見直されていい。今、盛んに言われている『友愛』とも重なる」と強調する。
 また宗教学者山折哲雄氏は。季刊誌「at」15号の賀川特集で、その詩に「乳房」に対する強い憧憬があることに注目。「賀川のキーワードは母です。厳父との対局で、仏教の観音の系譜、マリア観音の水脈に連なっています」と述べ、キリスト者としては同伴者としてのイエスを描いた遠藤周作とともに、日本の伝統風土に生きた文学者であったことを指摘している。
 ただ、賀川は第2次大戦で戦争に協力したと批判されているほか、現在から見ると問題ある人種発言もしている。それが戦後に忘れられた要因にもなってが、加山館長は「それでも一貫して貧しい人の側に立った賀川を評価してもらえば」としている。