徳島プロジェクト実行委員会がスタート

 6月13日、徳島県鳴門市の鳴門市賀川豊彦記念館で「賀川豊彦献身100年記念事業徳島プロジェクト実行委員会」の設立総会が開催された。10月10日に県民フォーラムを開催するほか、「死線を越えて」1万人上映運動、賀川豊彦社会基金(賀川ファンド)の創設など多彩な事業が展開される予定だ。また賀川が洗礼を受けたローガン、マヤス牧師の子孫を招聘することも決まり、スケジュールなどを調整中である。
 実行委員会は、徳島県農業協同組合中央会徳島県生活協同組合連合会、徳島県労働者福祉協議会、賀川豊彦記念。鳴門友愛会、イエス友の会徳島支部の5団体を中心に多くの団体・個人で構成する。飯泉嘉門徳島県知事と吉田忠志鳴門市長が顧問となり、委員長には田辺健一・鳴門市賀川豊彦記念館館長が就任した。事務局長は辻博史・徳島県労働者福祉協議会常勤幹事。

 設立の趣旨

 徳島県鳴門市出身の賀川豊彦は、1909年(明治43年)12月24日、21歳の神戸新学校の学生の時、学校近くにあった、貧しい人々の数多く住む地域に住み込んで救済活動を始めました。彼は、当時「死の病」といわれていた肺結核を病み、余命いくばくもないと宣告された体に鞭打って、貧困と差別に苦しめられた人々のために、キリスト教伝道、衣・食・住・医の提供、保育・教育・職業紹介・葬式執行など、様々な奉仕活動を、13年にわたって行いました。その後の彼の活動は、労働運動、協同組合運動(生活・農業・漁業・林業・医療・金融・共催)、世界平和運動無産政党運動など、あらゆる社会運動に発展しました。そして、「マスコミの帝王」と称された、毒舌の評論家大宅壮一は、「およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発している」と述べ、「近代日本を代表する人物」の随一と絶賛しています。欧米を中心とする海外でも、「最も偉大な日本人の一人」として記憶されています。それにしても、日本での知名度の低さは何ということでしょう。まして、彼のふるさと徳島県の人でも彼を知らない人が多いのは残念なことです。
 賀川がそれらの活動を始めて、今年でちょうど100年になります。それを記念して東京・神戸を中心に、この1年を通して様々な事業が計画・実施されています。鳴門市賀川豊彦記念館を運営する、賀川豊彦記念・鳴門友愛会でも、さる4月4日に「子どもたちのために歩こう! チャリティーウォーク」を実施し、11月から12月にかけて、特別企画展を開催する予定です。
 そして、このたび遅ればせながら、賀川のふるさと徳島県の、賀川関連諸団体が中心となって「徳島プロジェクト」を立ち上げることになりました。賀川にとって徳島は、幼少期の彼の心身を育てた風土と歴史と人情、さらに「魂の誕生」ともいえるキリスト教の洗礼など、彼の世界的巨人を育てた貴重な原点です。彼はふるさと徳島の近代以降の衰退に心を痛め、「藍亡び繭のすたれし阿波の国実のなる樹を植え疲弊救わん」と詠んでいます。そして毎年かならず徳島への教育・伝道のための講演旅行を行っています。最後の旅も重病の身をおしての帰省の旅でした。世界の偉人であり、徳島の宝である賀川豊彦の偉業を正しく後世に伝える使命が私達にはあると信じます。
 現在の日本の崩壊状況は、各層・各家庭に及び、もはや書く分野の改革だけではどうしようもない上京に陥っています。日本のグランドデザイナー(全体構想)を描き直すところから始めなくてはなりません。その時、「近代日本のグランドデザイナー」でもあった賀川豊彦を、改めて「21世紀のグランドデザイナー」として再評価する動きが広がっています。「持続可能な社会」(環境・政治・経済・社会など)の構築が世界中で求められている今、賀川豊彦おの思想と実践が見直されているのです。
 どうぞ、「賀川豊彦献身100年記念事業 徳島プロジェクト」の趣旨をご理解いただき、ご協力賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。